ベートーヴェン

【ピアノ・ソナタ】
西欧クラシック音楽の代表格として、常に名を掲げられるベートーヴェン(1770-1827)はピアノの名手でもあり、多くの作品の中でもピアノ曲、特にピアノソナタは彼の音楽の中核をなす作品群と考えられています。その数は32曲を数え、ほぼ生涯の全期間にまたがって書かれています。近代ソナタの第1楽章に使われる形式を「ソナタ・アレグロ形式〜略してソナタ形式」と云いますが、ハイドンによって完成されたと思われるこの近代「ソナタ形式」を、ベートーヴェンは様々な形に発展させ、ドラマチックな内容を盛り込むことに成功しました。この実験と発展の過程が32曲のピアノソナタに残されていると考えられます。その成果は、9曲の交響曲(交響曲はいわば、「管弦楽ソナタ」なのですが)により大がかりな形で応用され、見事に実を結んでいます。ただ、彼のピアノソナタは、単なる交響曲のための実験台ではなく、ピアノ音楽としての新境地を独自に切り開いており、ある意味では交響曲よりも多彩な表現力を持ち、バッハの48曲の平均律とともに32曲のピアノソナタは、それぞれピアノ音楽の「旧約聖書」「新約聖書」と称される程です。


【ピアノ・ソナタ第1番】
記念すべき第1番のピアノソナタです。ヘ短調と云う調性から連想されるほど暗く情熱的ではなく、むしろ軽快な運動性を持った、弾いていて一種「爽快感」の感じられる曲想です。32曲のピアノソナタの中で、ソナチネと思われる数曲をのぞくと比較的弾きやすい部類に入りますので、初級から中級にかかるレヴェルの人に好んで取り上げられるソナタでもあります。

●第1楽章
アルペジオでかけあがる第1主題、逆に下行する第2主題、と対比の良く効いた2つの主題がバランス良く配置されています。遅く弾くと暗く重い曲想になりがちですから、少ない目のペダルで速くサラッと弾くのが良いのではないかと思います。展開部は目まぐるしい程の転調を繰り返し、ハイドンなどの純古典派ソナタとはひと味異なった、ロマン派的な味わいを見せてくれます。

●第2楽章
ピアノ四重奏第3番の第2楽章の主題を転用されて作られており、型どおり平穏そのものの緩徐楽章です。

●第3楽章
メヌエットとありますが、後の月光ソナタの第2楽章を思わせるような、スケルツォ的な第3楽章です。後に、ベートーヴェンは第3楽章に型どおりのメヌエットではなく、スケルツォを配置するようになりますが、すでにその気配が見えています。

●第4楽章
非常に運動的で、爽快なロンドです。ピアニスティックな効果が高く、彼が作曲家であると同時にピアノの名手であったことがよく分かります。


【ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調】
この曲は「恋人」「愛する人」(Die Verliebet)などの俗称で呼ばれていて、名前どおり明るく優雅な気分に満ちあふれています。個人的な趣味を云わせて頂ければ、このソナタは、私が好きな数少ないベートーヴェンの曲の一つです。ベートーヴェンは、生涯、ピアノという楽器について、愛着とこだわりを持ち続けましたが、その理由は彼自身がピアノの「名人」でもあったからです。だから彼がピアノに示す愛着は「ヴィルトゥオーゾ」故の格別のものであり、この姿勢が第4番ソナタにもよく反映されています。その意味で、第3番、第21番、第29番、などと並びベートーベンの明るく華麗なピアノ演奏技巧が定着された作品に数えられると思います。

●第1楽章
決して弾きにくくはありませんが、充分な演奏効果がありピアニステイックに良く響いてきます。ベートーヴェンは、生涯、ピアノという楽器について、愛着とこだわりを持ち続けましたが、その面が良く出た作品だと思います。


【ピアノ・ソナタ第5番 ハ短調】
第5番は、ベートーヴェンがソナタをよりコンパクトに緊密に構成しようとした意図のよく分かる曲です。最初の4小節に現れる基本主題で、ほぼ全楽章が統一されており、一組の基本主題で全てをまとめると云う、いわゆる「循環形式」のような形が見えています。ただ、構成に意を置く余り、本来のピアノ曲が持つべきピアノ的な演奏効果は若干軽視されておりピアニストが取り上げる曲としては、同じ調性の「悲愴〜第8番」のほうがずっと人気があります。それを考慮して、練習されるときにはアナリーゼに半分以上のウェイトをかけたいところです。

●第1楽章
ジグザグに10度駆け上がるアルペジオと、レガートで2度下行する二つの動機が組み合わされて第1主題を形成しており、この基本動機が第2主題や2楽章、3楽章まで支配しています。

●第2楽章
平穏な緩徐楽章ですが、テーマは10度跳躍を3度跳躍に単音程化した動機と、2度下行する動機とで作られており、よく聞けば第1楽章の基本動機が透けて見えます。

●第3楽章
第1主題は、2度下行する基本動機が鎖のようにつながって形成されています。第2主題は、第1楽章の第2主題を音階的に埋めた形をしており、ここでもベートーヴェンが組織的に基本動機を使い回そうとしている事が読みとられます。


【ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」】
「悲愴〜Pthetique」は「月光」などと違って、ベートーヴェン自身が付けた題名です。何故、悲愴と名付けたのかは分かりませんが、この作曲の頃、ベートーヴェンは人生に悲観的になっていたようです。理由の一つは、その頃始まった難聴とそれに伴う耳鳴り、だと考えられます。音楽家にとって難聴は大きな精神的にダメージを与えることがあります。彼にとって聞こえにくいことそのものは(症状が徐々に進行したので)それほどのダメージではなかったと思いますが、それに伴う耳鳴りはかなりのストレスになったと思われます。「耳に綿を詰めてピアノに向かえば、あのざわざわした不快な音が消える」と、第7、8、交響曲のスケッチ帳に走り書きがあります。この時ベートーヴェンは40才を越えていますから、本当に長い間聴力の減退と、耳鳴りに悩んでいたことが推測できます。難聴に襲われた音楽家はいろいろいます。フォーレの場合は高齢によるものであまり影響はなかったようですが、スメタナの場合は「突発性難聴」で、おそらく数日間で完全に聞こえなくなったと思われます。彼の場合も同時に生じた「耳鳴り」に絶えきれず、結局、半分錯乱状態のような形で亡くなっています。

●第1楽章
グラーヴェ(荘重に、重々しく)と標語のついた序奏から始まっており、この冒頭で提示される2小節の基本動機が、全曲に関係しています。曲想は、活発で「悲愴感」溢れると云うよりは作曲者の若々しさを示すところがあり、充分な演奏効果があります。比較的弾きやすいので、始めての本格的ベートーヴェンのピアノ・ソナタとして選ばれることも多いようです。なお、提示部のリピートは序奏まで戻る人もありますが、どちらでも構いません。

●第2楽章
基本動機の後半を上手に組み合わせた、落ち着いた主題から出来ている緩徐楽章です。この2楽章が最も有名で、歌詞を付けて歌われたりもします。

●第3楽章
活発なロンドですが、どこかセンチメンタルなところがあり、やはりベートーヴェンの「若さ」を感じさせてくれます。


【ピアノ・ソナタ第14番「月光の曲」】
ベートーヴェンの32曲のピアノソナタのいくつかは、あだ名があって「恋人〜4番」「悲愴〜8番」「月光〜14番」「田園〜15番」「テンペスト〜17番」・・・等と呼ばれます。「月光の曲」はこの第14番ソナタの第1楽章を指します。ベートーヴェンがピアノソナタを通して実現しようとした一つは、全楽章を一つのまとまりで考えて、緊密に関連を持たせながら全体として一つのドラマを語らせることです。この最高の結晶は第23番の「熱情」に見ることが出来ますが、「月光ソナタ」でもその意図は充分に窺え、第1楽章冒頭の数小節の動機から、全楽章が構成され、最終楽章は第1楽章の大変見事な発展形として書かれています。

●第1楽章
レルシュタープと云う人がこの曲を、スイスのルツェルン湖に写る月のようだ、と云ったとかでこのあだ名が付いたようですが、真偽のほどは知りません。とにかく「月光」と云うイメージは、ベートーヴェン自身には何の関係もないものです。曲の感じも、私自身は「月光」から連想されるロマンティックなものとは遠く、もっと暗いものに受け取れます。第1楽章はテーマの音型や拍子、テンポ、から見て「葬送行進曲」と捉える人が最も多いようです。ドビュッシーの「月の光」やシューマンの「月夜」フォーレの「月の光」(双方とも歌曲)等の「月」とは異なって、どこか厳としたものが感じられるわけです。

冒頭の左手に出てくる下降音型が全曲(2楽章、3楽章も)を支配する基本モチーフとなっており、これがこのソナタの持つ「暗さ」の源をなしているのかも知れません。

なお、楽譜冒頭に[sempre pp e senza sordini]の指示が見えますが(英語に直すと、[always pp and without sordinos]と云うような感じです)、このsordiniは現在一般に[sordino]の語が指し示す「弱音器〜左のペダル」の意味ではなく、右のペダルで操作するダンパーの事です。従って「弱音ペダルなしで」と云う意味では決してありません。この辺りの詳細は、レッスンルーム「ペダリング」をお読み下さい。

●第2楽章
第1楽章から続けて楽章間の休み無しに弾かれます。第1楽章冒頭左手の下降音型が主要なテーマとして取り上げられ、メヌエットかスケルツォのような感じでリズミカルに進みます。

●第3楽章
この楽章が、このソナタの中心部分で、実に見事なピアニズムが展開されます。演奏には多分に「名人芸的」要素が要求され、大変難しい楽章です。曲は、第1主題第2主題ともに、明らかに第1楽章そのもので、しかし、第1楽章の静けさとは打って変わって嵐のような激しさと華やかさに満ち、聞く者を圧倒します。おそらく、ベートーヴェンはこの楽章の「前提」として、前置きに第1楽章と第2楽章を配置したのでしょう。全楽章をまとめて一つの表現を、と云うベートーヴェンの意図が明快に打ち出されています。


【ピアノソナタ第32番 ハ短調】

ベートーヴェン最後のピアノソナタです。ただ、「最後の」と云ってもベートーヴェンはまだ作曲に余力を残しており、亡くなる前の力の衰えた作品ではありません。この頃、彼は大曲「ミサ・ソレムニス」を作曲中で、この後「第9交響曲」や、ピアノ変奏曲の名作「ディアベリ変奏曲」の傑作を作ります。しかし、晩年である事にはかわりなく、初期のピアノソナタとは相当異なった様相を呈した作品です。

●第1楽章
非常にベートーヴェンらしい、力強く闘争的でエネルギッシュな楽章です。悲愴ソナタのような遅い序奏を持ち、複付点のリズムと広い音程の跳躍から始まるこの序像は、ショスタコービッチのニ短調交響曲を思わせ(正しくはショスタコービッチがベートーヴェンを彷彿させる訳ですが)、何かすごいことが始まる予感に満ちています。序奏の後は、一応ソナタ形式をとりますが、主として対位法が使われエネルギッシュな第1主題が息をつくまもなく展開されて行きます。ただ、対位法は31番ソナタで見せたような「フーガ」ではなく、自由な形をとりますのでソナタ形式の中にうまく取り込まれ、大変ダイナミックで見事な表現を作り出しています。

●第2楽章
柔らかい3連系のリズムによる3拍子の主題(曲は9/16拍子)を元にした、天国的な変奏曲です。徐々に高音域に上り、ダンパーのないピアノの高音域特有のキラキラした音色を使う手法は、熱情ソナタの第2楽章などで見せるものと同じで、魂が浄化され天国に上り詰めるイメージだと思います。


 

【バガテル】

《バガテルに「ついて》
バガテル(Bagatelle)は、元来、些細なものと云う意味のフランス語ですが、音楽用語としては「小品」を表す殆どインターナショナルな名前になっています。ピアノ作品としてはバルトークやシベリウスなどがよく演奏されますが、ピアノ以外でも使われウェーベルンの弦楽四重奏用の「6つのバガテル」なども有名です。ただ、ベートーヴェンのピアノ小品といえば第1に挙げられるのがバガテルで、その意味では元祖「バガテル」と云えるのではないでしょうか。ベートーヴェンは「バガテル」を20曲以上作曲しており、例の「エリーゼの為に」もバガテルの1曲です。

作品126の「6つのバガテル」はベートーヴェンの最晩年の作品で、作品番号的には32番のハ短調ソナタやディアベリのワルツによる変奏曲の後に位置し、これ以降大作は書かれていません。小品と云うことで、テクニック上も比較的やさしく弾きやすいですが、大変味わい深くベートーヴェンの晩年の境地を示す重要な作品として数えられています。ベートーヴェン自身、この「6つのバガテル」が上出来であったと認めていたようで、出版者に、私の小品の中で最良の出来だ、と語ったと伝わっています。

●作品126-1 ト長調
ヴァイオリンで弾いてもよく似合うと思われるような、おだやかな旋律が流れ、平穏で美しい音楽です。ただ、平穏の中にどこか「弱寥感」が漂うような気がします。いずれにせよロマンチックな音楽で、どこかシューベルトの香りがします。

●作品126-3 変ホ長調
中低音で始まった、やさしい旋律が高音域にまで上り詰め、32分音符の細かい動きに昇華して行きます。「熱情ソナタ」第2楽章(の最終変奏)を思わせる書法で、多分、熱情ソナタと同じく天国的な高みを示す表現であろうと思います。ダンパーの効かない高音域のキラキラした音色を大変効果的に使っています。

●作品126-4 ロ短調
プレストと指示され、ベートーヴェン的な少し暗い感じのロ短調のフガートで始まり、若干気まぐれな楽想を示しますが、その内にロ長調に転じ、最後は平明の中に消えて行きます。ベートーヴェン特有の「闘争的な」エネルギーはそこになく、若い頃の作品とはひと味違った味わいです。


【変奏曲】
ベートーヴェンはピアノの変奏曲を20曲以上書いています。現在知られているものでは、10歳頃の作品とされる「ドレスラーの主題による9の変奏」から、最後の「ディアベッリのワルツによる33の変奏曲」まで、ほぼ彼の活動の全期間にわたって書かれた作品がならんでおり、その意味ではピアノソナタと並んで、ベートーヴェンのピノ作品の中で重要な位置を占めます。

最初の頃の作品はモーツァルトのような、いわゆる旋律装飾的な表面的変奏ですが、次第に主題を深く扱い、中に入り込んで行く内面的性格的な変奏曲に移行し、上記ディアベッリのものや自作の主題によるハ短調の変奏曲などはまさに変奏曲の最高峰として(バッハのゴールドベルグ変奏曲にならぶ)名曲に仕上がっています。

ベートーヴェンのピアノソナタを練習される方は、32曲中数曲含まれるソナチネに取りかかった後、急に難しくなって途方に暮れると云った状況に陥りやすいですが、そんな時にはこの変奏曲を弾いてみることをお奨めします。充分やさしいものが多く含まれますし、なによりも1曲が短く、ソナタのような「長丁場」ではありませんから練習しやすいと思います。

※ベートーヴェンの「変奏曲」についてはソナタのように通し番号や作品番号がない事が多いので、WoO(Werk ohne Opuszahl)番号で識別します。これは、1955年にG.KinskyとH.Halmによって整理されたベートーヴェンの作品識別番号です。

●パイジェッロのオペラ「水車屋の娘」から”田舎の恋は(L'amor contadino)”による9の変奏曲〜WoO.69
「うつろの心」による6の変奏と一対のもので、明るく愛らしい主題とそれにふさわしい、軽く、楽しい変奏から出来ています。弾きやすく、多分ソナチネ程度の難易度だと思われますが、何しろ1曲が短いので練習しやすいです。最後の変奏はメヌエットになり、この変奏曲の明るさを際だたせてくれます。

●「うつろの心(Nel cor piú non mi sento)」による6つの変奏曲〜WoO.70
同じくパイジェッロのオペラ「水車屋の娘」のなかの二重唱「ネル コル ピュー ノン ミ セント」による変奏曲です。ソナチネアルバムの第2巻に掲載されています。この主題になった歌は「うつろの心」と訳されイタリア歌曲集にも載っている有名歌なので、声楽をかじった方ならば誰もが一度は歌った経験があると思います。

●「トルコ行進曲」による6つの変奏曲 作品76
「トルコ行進曲」はよくモーツァルトのものとベートーヴェンのものとが挙げられますが、ベートーヴェンのものはピアノ曲ではなく、1809年に作られた劇音楽「アテネの廃墟」作品113(序曲と8曲からなる)に含まれていたものです(よく、見かけるピアノ版のトルコ行進曲はリストの編曲したもので、音数も多く結構難しい)。このテーマを元にベートーヴェンは6つの変奏曲を書いています。かなり円熟期の作品(40才頃)だけあって、パイジェッロのオペラによる先の2つの変奏曲とは異なって、変化に富み豊かな響きを見せてくれます。