ショパン:マズルカ集

 

【ショパンのマズルカについて】
ショパンは、生涯に「マズルカ」を50曲以上作曲しています。作曲時期も若いときから死の直前までに渡り、一つ一つは短い曲ですが、マズルカは彼の作品の中でも重要な位置を占めていると考えられます。
一般に、マズルカと云うのはポーランドのある種の舞曲の総称で、やや遅いメランコリックなもの〜クヤヴィヤックと呼ばれる〜から、速いテンポの活発なもの〜オベレックと呼ばれる〜まで、いくつかの種類を含んでいます。この辺が、同じポーランドの舞曲で、やはりショパンの好んだジャンルである「ポロネーズ」とは、少し異なります。ただ、ショパンの「マズルカ」は、それらの舞曲の形をそのまま使ったと云うよりは、それらをいろいろ取り混ぜて一曲に仕立て上げているものも多く、かなりショパンなりに消化した上で作曲していると考えられますので、文字通り「ショパンの」マズルカ、と呼ぶのに相応しいものです。

マズルカは基本的には3拍子の曲なのですが、ショパン自身の弾くマズルカは、非常に土俗的なクセの強いリズムであったようで、多くの人が「2拍子に聞こえた」との証言を残しています。だから、譜面上は似ていますが、ワルツとは異なったジャンルです(とは云え、ショパンのワルツにはマズルカに近いものも含まれ、ショパンに関しては一概にそうであるとも言えませんが)。この「リズム」の問題があるために、ワルツとは違って、初心者にはなかなかとりつきにくい作品群で、敬遠されがちですが、逆に、ショパンはそのことを分かっていて、特に初期のマズルカでは、ワルツとは比較にならないほど、詳細にスラーやアクセントを楽譜に書き込んでいます。このことが、かえって「練習しやすい」要素を持っているとも考えられ、恐れずに挑戦して頂きたいジャンルである、と私は思っています。

なお、マズルカは、特に後半、版によって番号が異なりますので「何番」とは呼ぶと曲が特定できないことがあります。作品番号で呼ぶ方が良いと思います。


【作品7-3】
ギターのような伴奏にのって、美しい旋律が歌われる佳曲です。イントロの低音では、増4度を含んだ民族的な音階が聞こえ、「マズルカ」であることを思わせます。ちなみに、この増4度音は東欧の民謡には良く出てくる音で、ジプシーの音階にも含まれ、バルトークやリストなど東欧の民謡を元に作曲した作品にはよく顔を出します。ただ、この音は西欧の音階には珍しく、西欧風の和声を付けるときには、それぞれに工夫を凝らして処理しているようです。

【作品63-3】
彼のマズルカの中で、作品7-1と並んで最も有名で、かつ、美しい曲です。同じ頃の嬰ハ短調のワルツ(作品64)と良く似た雰囲気をもっています。優しく慰撫するような甘い旋律はショパン特有の世界ですが、最後は「対位法的な」動きが取り入れられており、感傷的一点張りの世界ではないように工夫されています。ワルツが、どちらかと云うと「聞く人を意識して」つまり「受け」を狙って書かれているのに対し、マズルカはもっと「自分の世界」に引き込んで作られている作品で、その差が、あまり使ったことのない「対位法的な」手法を取り入れると云う結果に現れているような気がします。

【作品67-2】
作品67は遺作(つまりショパンが亡くなってから出版された)で色々な作曲年代のものが混ざっていますが、このト短調の曲は、次の作品68-4と並んで最晩年の作曲です。晩年のショパンを特徴づける、力のない旋律が空回りするような感じで歌われます。

【作品68-4】
この曲は、ショパンの絶筆です。もう力つきて、この曲も演奏は出来なかったようです。ショパンは1849年に入って結核が悪化し、死期を悟るようになります。故郷のポーランドに帰りたい気持ちがつのりますが、それもかなわず、最愛の姉ルドヴィカに来て欲しいとの手紙を書きます。ポーランドはロシアとのいざこざで、国境が封鎖され出国もままならない状態でしたが、色々な人の助力で、8月にやっとの思いで姉のルドヴィカが到着します。そして、その2ヶ月後(ルドヴィカに見守られて)息を引き取ります。

短2度上がって下がる出だしの旋律と半音階的な和声進行は、前奏曲の4番(ホ短調)を思わせ、又、どことなく若き日にマリア・ヴォジンスカに送った「別れのワルツ」も連想させます。やや明るさを取り戻すような変イ長調の中間部から、半音階的なゼクエンツで崩れ落ちるようにヘ短調に戻る部分はきわめて繊細で美しいと思います。力無くつぶやくようなこの曲を弾いていると、鍵盤から指を通して死を悟ったショパンの心象が直接伝わってきます。涙無しには弾けないマズルカです。

マズルカ ”シマノフスカ”(B.I.=85)】
20世紀になってから発見され出版されたマズルカで、ポーランドの女流ピアニスト”マリア・シマノフスカ”のノートに記されていたのでこの名で呼ばれます。ただ、シマノフスカ本人の為に書かれたかどうかは疑問で(つまりシマノフスカ自身は、もっと早めにロシアで亡くなっている)、シマノフスカのノートに誰かが書き写したものだろうと考えられています。