C.ドビュッシー

  [1]ベルガマスク組曲  [4]小品集 
[2]組曲「ピアノの為に」  [5]子供の領分 
[3]前奏曲集より   

【ドビュッシーについて】
ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862-1918)は、ちょうど近代から現代への過渡期に位置するフランスの作曲家です。19世紀末から20世紀へかけては、社会の様々な文化的側面で大きな変化が起き、この変化の坩堝を、独特の意味を込めて「世紀末」と呼ぶことがあります。ドビュッシーは、音楽家としては、この「世紀末」の形容に最も相応しい存在ではないかと考えられます。彼の、出世作「牧神の午後への前奏曲」が、この世紀末芸術を代表するフランスの象徴派詩人マラルメの詩に基づく作曲ですし、成功した唯一のオペラが、メーテルリンクの戯曲化による「ペレアスとメリザンド」であったこと、などは、彼がこの「坩堝」中にあったことを良く物語っています。ただ、彼のピアノ曲は、歌曲、オペラ、管弦楽曲等、他のジャンルに於いて驚くほど新機軸の音楽を提供したのに比べて、若干保守的で、新機軸の開発が遅れ気味でした。このために、一回り以上後輩の作曲家ラヴェルとの間に、ピアノ曲の表現イディオムに関して、度々、盗った盗らない、の悶着を引き起こすこともありました。この原因の一つは、ドビュッシー自身がピアノの名手でもあったことにあると思われます。実際、彼はパリ音楽院時代は、マルモンテルのピアノクラスに在籍し(この意味ではドビュッシーはショパン直系の弟子と云うことになる)、コンクールでも何度か賞を取り、ピアノのヴィルトゥオーゾを目指していた形跡があります。この時代のピアノ音楽の主流は、「サロン風」ピアノであり、ピアノというハード・ウェアの浸透と相俟って大量にこの種の(つまりサロン風の)ピアノ曲ソフトが供給されていました。おそらく、ドビュッシーの念頭には、この種のピアノ曲への先入観が宿っていたのであり、これが、特に初期の彼のピアノ曲(2つアラベスク、バラード、ノクターン、ベルガマスク組曲など)に大きく作用したのだと考えられます。しかし、逆に言えば、これが、ラヴェルと異なって、ドビュッシーのピアノ曲を、現在、アマチュア・ピアニストにとって大変近づきやすいものとしている原因でもあります。この意味では、ラヴェルの作品は殆どがプロ向きのピアノ曲であって、アマチュアには殆ど歯が立たないものばかりなのです。

【ベルガマスク組曲】
1890年に発表された、4曲からなるピアノ組曲です。中期以降のピアノ作品に見られるドビュッシー独特のピアノ表現上のイディオムは未だ姿を現してはいませんが、彼の持つ独特の感性は、既に充分顕現しています。とりわけ第2曲目の「メヌエット」の持つデリケートな陰影表現は、ドビュッシーの向かう感性の方向をはっきりと示しているように思います。
曲集の題名にある「ベルガマスク」の意味は「イタリア、ベルガモ地方(の人や踊り)」を意味しますが、音楽自体には、特に「イタリア」を感じさせるほどの内容はなく、第3曲目の題名が「月の光」であること、この前後の時期にヴェルレーヌの詩に触発されて多くの歌曲を書いていること等から、ヴェルレーヌの詩《月の光》に現れてくる詩句から採ったものと思われます。従って、この曲集で、必要以上にイタリア風にこだわることはないと思っています。逆に、3曲目の「月の光」以外は古風な舞踏組曲に使われる題名(前奏曲、メヌエット、パスピエ)ですが、どちらかと云うとこれらの題名の付け方に、ドビュッシーの意図的な方向付けが感じられます。

(1)「前奏曲」
明るい色彩感に富んだ曲です。「印象派」と呼ばれるドビュッシーの音楽の特質の一つは、この明るさにあるように思います。中期以降のような特殊な印象派風和声の使い方は見られないにもかかわらず、それまでの「ロマン派」音楽と一線を画すのはこの明るい雰囲気ではないでしょうか。

(2)「メヌエット」
一種くすんだような色彩感のなかに、デリケートな光と陰が交錯する曲です。ちょうど、ドビュッシーの好んだレンブラントの画のような美しさを持っています。非常に美しい曲であると私は思います。

(3)「月の光」
これは、説明を要しません。ドビュッシーの作品の中で、最も有名な曲の一つでしょう。

(4)「パスピエ」
パスピエは、元来3拍子のフランス古来の舞曲です。バロック期の組曲には時々あらわれます(例えば:バッハのイギリス組曲第5番)。これを、ここでは4拍子に変更して使っているようです。全体に古いものに憧れるノスタルジックな雰囲気が満ちています。


【組曲「ピアノの為に」】
ドビュッシーは1890年に「ベルガマスク組曲」を書いてから、10年ほどはピアノ曲を殆ど作曲しませんでした。「ペレアスとメリザンド」「牧神の午後への前奏曲」など、管弦楽曲や歌曲に集中していたわけです。10年経って、1901年に久しぶりに手を付けたピアノ曲が、この「ピアノの為に」で、3曲からなるこの組曲は、ベルガマスク組曲以前とは本質的に異なった特徴を持っています。それは、サロン風ピアノ・スタイルからの脱却の方向を見せていると云うことです。往々にして指摘されることですが、ドビュッシーの初期のピアノ曲の欠点は、その頃の主流であったサロン風(つまり素人向き)のスタイルをもろに反映し、管弦楽や歌曲には素晴らしく個性的な特徴を発揮できたのに対し、ピアノ曲に関しては(それなりに美しいのですが)どうしても陳腐なスタイルでしか書けなかった、と云うことです。ドビュッシーとラヴェルは同じ印象派の作曲家として比較されますが、ことピアノ曲に関しては、この点で、出発点が本質的に異なっていたのです。
「ピアノの為に」は、その意味で、ドビュッシーがピアノの表現に於いて、やっと個性的なスタイルを確立するきっかけを得た作品です。当然、「ベルガマスク組曲」に比較して演奏技術は格段に難しく、素人が楽しみでちょっと弾いてみる、と云うような内容ではなくなっていますが、しかし、これ以降、「版画」「映像」「前奏曲集」「12の練習曲」と、真にドビュッシーの個性が発揮されたピアノ曲が次々と作曲されるのです。

●プレリュード
ドビュッシーのここまでのピアノ曲にはなかったような、一種荒々しいサウンドの曲です。ドビュッシーの好んだ「全音音階」のパッセージが幾度も出現し、非常にユニークなピアニズムを聞くことが出来ます。何度も出てくるグリッサンドは印象的で、グリッサンドを使った有名ピアノ曲の一つに数えられると思います。

●サラバンド
2曲目に位置する「サラバンド」は、題名の持つノスタルジックなイメージを繊細な和声で表現した、美しい曲です。全体的に教会旋法的な旋律が主体で、嬰ハ短調の調性ですが、導音に当たるHis音は、殆ど出現せず、旋法特有の中性的な調性感で曲が進行します。

●トッカータ
トッカータは、組曲の最初に置かれることが多いのですが、これは最後に置かれています。触れる(英語のTouch)と云う意味から派生した題名の通り、技巧的で速い音の流れがトッカータの特徴ですが、この曲も例に洩れず、大変技巧的な速い音型が連続します。従って、演奏も難しく、ドビュッシーが、サロン風から脱却しようとした意図がよく分かる曲となっています。


【前奏曲集について】
ドビュッシーの前奏曲集は1巻、2巻、にそれぞれ12曲づつ合計24曲あります。24曲の数は多分ショパンに倣ったものと思われますが(そのショパンはバッハの平均律曲集に倣ったものと思われます)、ショパンのように各調性1曲づつのように配分されている訳ではありません。ドビュッシーの場合は調性不明確な曲も含まれるからです。各曲は個性的な雰囲気を持った比較的短い曲で、曲間の関連性はあまり考慮されておらず、従って、24曲通して演奏されることを前提とはしていないようです。

各曲にはそれぞれ思わせぶりな題名が付されていますが、ドビュッシー自身の意向ではこの題名は曲の後に付される事になっています。

第1巻では「亜麻色の髪の乙女」や「沈める寺」が良く知られており、第2巻では「霧」や「花火」等が有名です。

● 「霧」
半音でこすれ合う右手、左手、と云った特徴のある手法を使って、霧につつまれた雰囲気を表しています。乳白色の濃い霧で、遠くに街頭の明かりがぼんやり見えたり、何やら姿は見えないけれども人の気配がしたり足音が聞こえたりします。

 

●「ヒース」
ヒースの茂る野原から聞こえてくるのどやかでひなびた歌です。雰囲気も手法も第1巻の「亜麻色の髪の乙女」によく似ています(エンディングなどそっくりです)。ドビュッシーのナイーヴな感性が窺える美しい曲です。

●「エキセントリックなラヴィーヌ将軍」
ロートレックの戯画にもとづいて書かれています。ラヴィーヌ将軍は「あやつり人形」です。従って、ピョンピョンはねる様に登場し、若干ギゴチない動きでケーク・ウォークを踊ります。途中で糸にズルズルと引きずられたりもします。

●「カノープ」
カノープは古代エジプトの壺です。古い壺を眺めて、遠い古代に思いを馳せていると一瞬古代エジプトの不思議な雰囲気にタイム・スリップした・・そんな趣向を感じさせます。

●「花火」
曲集の最後を飾るにふさわしい、華やかな名曲です。パリ祭の花火の描写です。日本のような打ち上げ花火中心ではなく、いわゆる「仕掛け花火」が中心です。クルクル回る仕掛け花火や、青や赤に色の変わる噴水のような花火、ドーンと打ち上げられる打ち上げ花火、等が描写され、最後に花火の消えた後の一種の虚脱感のような静けさのなかからフランス国歌(ラ・マルセイェーズ)がかすかに聞こえます。

●「亜麻色の髪の乙女」
「月の光」とならんで通俗的に知られているピアノ曲の双璧です。これとは別に、若い頃の歌曲で同題名のものが見つかっており、同じ詩を元に作曲されたものと考えられています。その詩はシャルル・ルコント・ド・リールの《古代詩集》中の「スコットランドの歌」からとられたもので、以下のようなものです:

花ざかりのうまごやしの上に座って さわやかな朝早くからうたうのはだれ?
それは、亜麻色の髪のおとめ さくらんぼの唇をした美しいおとめ
愛は、明るい夏の太陽の下で ひばりとともにうたっていた。
お前の唇の色はすばらしい いとしい人よ、その唇に口づけしたい!
花ざかりの草の上で語り合おう。
・・・・後略・・・・・

なお、亜麻色と云うのは西洋人の髪毛の形容によく使われますが、灰褐色のような中間色で次のような色です。

 

●雪の上の足跡
前奏曲集の第1巻6曲目にあたる曲ですが、大変高い評価を受けることの多い曲です。その理由は、「淋しい」「悲しい」感情が、ドビュッシーには珍しく盛られているからではないかと思われます。一般にドビュッシーのピアノ作品は「明るく」、ロマン派の持っていた「暗さ」とは無縁のものが多いのですが、そのせいもあって若干軽薄な感じがしないでもありません。しかし、この曲に関してはそうではなく、凍り付いたわびしい風景がよく描写されています。全曲に、凍てついた足跡を示すリズムが使われ、曲頭には「このリズムは、凍てついた悲しい風景の底から響いてこなければならない」と但し書きがしてあります(Ce rhythme doit avoir la valeur sonore d'un paysage triste et glacé.)。季節は若干異なりますが、チャイコフスキー「12ヶ月集」の10月(秋の歌)に良く似た曲想、或いは風景かと思います。

 


【子供の領分】
1908年に出版された6曲からなる小曲集です。1905年エンマ・バルダックとの間の愛娘シューシューの誕生をきっかけに書かれたと云われています。この中の「人形のセレナード」が先行して書かれ、1906年に一旦単独で出版されましたが、2年後これに5曲を加え計6曲の小曲集として「子供の領分〜Children's corner」の題名でまとめられました。ちなみに、娘の本名はクロード・エンマ、Chou Chouは「キャベツ(chou)ちゃん」と云うような愛称です。シューシュー自身はドビュッシーの死の翌年後を追うように夭逝しました。
古今東西、子供のための曲集は掃いて捨てるほど存在しますが、この「子供の領分」は、子供のためのと云っても、決して子供が弾く曲ではなく、かと云ってシューマンの「子供の情景」のように大人が作り上げたややノスタルジックな空想上の子供の世界でもなく、非常に洗練された手法で、子供のあどけなさを描いたというユニークな曲集です。その意味では、ムソルグスキーの歌曲集「子供部屋」(この歌曲集は、いわゆる『子供言葉』で歌詞を書き、これに対して作曲した大変ユニークな歌曲集です)に似た位相を持っています。このために、各曲自体はステージにのるような大柄な曲では決してないのですが、プロのピアニストのプログラムにも加えられることが多い曲集です。

曲はそれぞれ英語の題名を持っています。多分これは、イギリスではなく、アメリカをイメージしたのであろうと思います。20世紀初頭、アメリカは明るく豊かな未来の国つまり新世界と考えられていて、子供のイメージにピッタリだと思ったのでしょう。

@"Doctor Gradus ad Parnassum"(グラドゥス アド パルナッスム博士)
A"Jimbo's lullaby"(ジンボーの子守唄)
B"Serenade of the doll"(人形のセレナード)
C"The snow is dancing"(雪は踊っている)
D"The little shepherd"(小さな羊飼い)
E"Golliwogg's cakewalk"(ゴリウォッグのケークウォーク)

●グラドゥス アド パルナッスム博士
ギリシャにあるパルナソス山は、芸術の霊峰とされています。日本語で云えば蓬莱山です。そこに通ずる階段(グラドゥス)と云う意味ですが、具体的にはクレメンティの練習曲集を指しています。ショパンの愛したこの29曲からなる練習曲集は、大変高度な練習曲集で子供が弾くような代物ではありませんが、ドビュッシーはシューシューが成長してこの練習曲を弾くことを想像したのでしょう。途中で飽いてしまって、又弾き始めるような光景が描写され、愛情溢れる曲に仕上げています。

●ジンボーの子守唄
ジンボーと云うのはシューシューの持ち物で、象のぬいぐるみだと云われています。ドビュッシーお得意の全音音階を用い、子供が遊ぶ可愛い世界をやさしく描いています。

●人形のセレナード
この曲が先に作曲されて、「子供の領分」と云う曲集が出来上がったわけで、いわば曲集の親分です。セレナードはギターの伴奏で歌うというのが定番で、ギターを模したドビュッシーお得意の伴奏型が現れます。

●雪は踊っている
雪がチラチラ降る光景を、子供の目から描いた作品です。大変簡素な手法で書かれていますが、情景描写とそこから湧き起こるあどけない感情の喚起とが見事に一致し、これぞ印象主義と云う作品になっています。雪の描写と云えば、ドビュッシーにはもう1曲前奏曲集の中の「雪の上の足跡」があり、これも前奏曲集中の名曲に数えられていますが、私は幻想性と云う意味では、この「雪は踊っている」のほうが上ではないかと思っています。

●小さな羊飼い
これも、子供のおもちゃの人形でしょう。岩山に羊飼いの少年が腰をかけ、ちっちゃな笛を吹いています。のどかな笛の音が、岩山と草原に拡がって行きます。

●ゴリウォッグのケークウォーク
ゴリウォッグは黒人人形のキャラクタ、ケークウォークは今でも踊られている、黒人の腰振りダンスです。ゼンマイ仕掛けの人形と云われていますが、若干グロテスクでコミカルと云ったイメージでしょうか。中間部では、トリスタンとイゾルデの例の「愛」のテーマが歌われ、直後に「キャッキャッ」と云った幼児の「笑い声」の音型にかき消されてしまいます。ワーグナー嫌いだったドビュッシーらしいパロディですが、若干「剣があります」。


【小品集】

●「2つのアラベスク」から
ドビュッシーは1884年にローマ大賞を得てイタリアに留学します。1887年に帰国しますが、この後すぐに書かれたのが、ピアノ曲の「2つのアラベスク」で、この曲はその第1番です。初期のドビュッシーのピアノ作品中では「月の光」と並んで最も有名な曲ですが、その後にに出現するような、いわゆる「印象主義的な」個性的イディオムは用いられていません。その頃人気のあったマスネーなどと変わらない味わいです。

ただ、「アラベスク」と云う題名の付け方に、当時最先端であったアール・ヌーヴォーの影響が感じられ、興味深い点があります。アール・ヌーヴォーは仏語で「新しい芸術」の意味で、英語ではモダン・スタイル、独語ではユーゲント・シュティルなどと云われますが、基本的には美術上の様式で、大変に「装飾性」を重んじます。この《装飾性の重視》には、それまで「人間の視点」を中心に画面を構成してきたヨーロッパ近代芸術の伝統からの脱却、或いはその超克への意図が込められている訳です。

「アラベスク」はそのまま訳すと「アラビア風」ですが、このようなコンテクストでは「アラビア美術に見られるような《装飾性》」を意味します。従って、この題名「アラベスク」は決して《アラビア音楽風》と云う意味ではなく、「音で綴った装飾模様」と云うような意味を、当時の流行であったアール・ヌーヴォー趣味で命名したと考えるのが正しいと思います。ここにドビュッシーが持っていた基本的な感性の方向が示されている、と考えられます。「2つのアラベスク」はサウンドそのものの古くささとは裏腹に、《反近代》を掲げて《現代への窓を開けた》ドビュッシーの出発点として、相応しい題名を携えているわけです。

なお、私たちは風呂敷の唐草模様をサラセン模様と呼びますが、これも云ってみればアラビア風の装飾を意味します。あの風呂敷がアール・ヌーヴォー?といささか奇異な感がしないでもありませんが、私たちが非ヨーロッパ文化圏に存在することの証でもありましょう。

●夜想曲
1892年に書かれたこの曲は、大変美しいわりにはそれほど演奏される機会はないようです。その理由は、やはりドビュッシーらしい個性的なサウンドに欠けていることであると思われます。弾いてみるとすぐ分かりますが、これがグリークの作品と云われても驚かない人の方が多いでしょう。この2年後には管弦楽作品で「牧神の午後への前奏曲」が発表され、その個性的なサウンドで反響を呼んだ事を考えるとちょっと不思議な気がします。これよりも以前から、歌曲のジャンルではドビュッシーは充分個性的な作品を書いており、全体的にピアノ曲ジャンルだけが若干遅れているような気がします。ドビュッシーは大変ピアノの上手な人でしたが、その辺りにピアノ曲だけが遅れている原因が何か隠されているのかも知れません。

しかし、そんなことを気にしないで聴くと、大変美しく、ピアニスティックな効果もあり、上出来の作品です。

●夢
現在、アマチュアピアニストのレパートリーとして人気のこの曲は、1890年頃に書かれ一旦出版されかかりましたが、ドビュッシー本人の希望で出版差し止めとなり、後の1904年にあらためて出版されました。出版を中止した理由は、おそらく、ドビュッシー本人が余り上出来とは認めなかった事であり、後に出版された理由は、その時点での経済的理由であろうと思われます。作曲家自身が、上出来とは認めなかった曲が、却って通俗的に有名になっている例としては、ラヴェルの「逝ける王女の為のパヴァーヌ」があり(ラヴェルはこれを自身の作品に数えられるのを嫌がっていた)、この『夢』と似ています。
経済的理由としては、1904年に起きた、当時のドビュッシーの妻リリー(ロザリー・テクシエ)のピストル自殺(命は助かった)事件と、この原因となった愛人エンマ・バルダック夫人との関係が考えられます。この年の夏、エンマと出かけたジャージー島への旅行費用でもなったのでしょう。この旅行から帰ってきた直後、リリーがピストル自殺を試みたと云う筋立てです。結局、ドビュッシーはリリーを捨て、エンマと結婚し、例のシューシューが生まれ、「子供の領分」を作曲することになるのですが・・。
ドビュッシーは、いわゆる女癖の悪い人で、無名時代に同棲していたギャビー(ガブリエル・デュポン)も最後の頃に、彼の女関係が原因で自殺未遂事件を起こしています。

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