月光の曲について
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【はじめに】 ベートーヴェンは生涯に32曲ものピアノ・ソナタを書きました。それらは、若い頃から始まって晩年に至るまで、ほぼ全時代にわたって作曲されています。これは、ベートーヴェンが「ピアノ」と云う楽器に対して並々ならぬ愛着を持っていた事と同時に、ソナタと云う形式に対しても大きな可能性を感じていた事を示します。実際、彼ははピアノの名手で、《ベートーヴェン》→《ツェルニー》→《リスト》、と受け継がれる師弟関係の系譜は19世紀ピアノ音楽興隆の王道につながっています。しかし一方ソナタと云う形式に関しては、ベートーヴェンの熱烈な崇拝者であったシューベルトが20曲を越えるピアノ・ソナタを書きましたが、ベートーヴェンの翌年に夭逝して以来、これほど多くのピアノソナタを書く作曲家はもう現れませんでした。無論、ショパンもリストもシューマンもピアノ・ソナタを作曲し、それらの多くが名曲として現在でも頻繁に演奏されますが、ただ彼らの残したソナタはせいぜい数曲で数10曲と云う単位には全く及びません。 これらの事を踏まえて、ベートーヴェンの「月光ソナタ」が占めるピアノ音楽中の位相について私の考えを述べてみたいと思います。
月光ソナタでは第1楽章冒頭に、このソナタの全ての要素が含まれています。
(a)は発生動機と考えられるもので、3つの下行する音符から成り立っています。これが、このソナタの全楽章の基礎になります。 (b)(c)は第1楽章の第1主題を構成する要素です。アルペジオ(b)とG#音の反復(c)から成り立っています。 ここに示された3つの下行する音符は、基本動機として月光ソナタの全楽章を支配します。 ・第2楽章は基本的に発生動機(a)の反復から出来上がっています。
・第3楽章の第1主題です:
左手伴奏の低音に注目して頂ければ、赤丸の音が基本動機となって支えているのが分かります。 同じく第2主題では:
赤丸の音(つまり基本動機)がこの骨格をなしているのが分かると思います。 第2主題後半に現れる、確保の一部をなすような第3主題も、この基本動機で出来ています:
展開部の最後に現れる、小結尾も基本動機で構成されます。
この他、つぶさに見て行けば、ベートーヴェンがこの基本動機を意図的に用いて全楽章を支配させようとしていたことが、よく分かると思います。各自で細かく分析してみて下さい。
●ソナタ形式と循環形式 ところで、ベートーヴェンは一つのソナタの全楽章を一つの基本動機から作り上げると云う手法を発展させてきました。後にフランクによってこのような手法を「循環形式」と名付けられましたが、ベートーヴェンは中期以降この手法を意識的に採るようになります。初期に作曲されたソナタ(例えば、第5番や第8番「悲愴」)に見られるように、最初はおそらく半分無意識的に遠慮がちに使っていたこの方法が23番(熱情)では、大々的にかつ非常に効果的に用いられているのは御存知の通りです。
さて、「月光ソナタ」は、この過程にあって、この「循環形式」のユニークな例であると考えられます。(1)で見たとおり発生動機と思われる3つの下行する音符による基本動機が全曲を支配していおり、あらゆる要素がこの基本動機に関係づけられていると云っても良いくらいです。ただし、ここでもっと興味深いのは、《第1楽章第1主題》と《第3楽章第1主題》が、ほぼそっくりの形を採っていると云うことです。
この第3楽章第1主題は、第1楽章のそれに比べると随分異なったテイストを持つ、極めて華やかでピアニスティックなパッセージですが、よく見てみると両主題は同じ物であることが分かります。つまり、左手の伴奏は下行する「発生動機」に支えられ、右手はアルペジオ(b)+G#音の反復(c)から出来上がっている訳です。ここでは、葬送行進曲のような、「暗く」「沈んだ」第1楽章第1主題が、ものの見事に華やかで技巧的なパッセージに「変身」しているのです。この意味では、第1楽章はこの華やかで申し分ないほどピアニスティックな第3楽章の「影」、或いはメインディッシュであるところの第3楽章を際だたせるための「前菜」的な役割、であると云えるかも知れません。 ベートーヴェンのソナタに於ける「循環形式」の狙いは、一組の発生動機が全楽章を通して、如何にその「成長」「発展」「変身」を遂げるかを描ききることにあります。この最も美しく完成し成功した例を私たちは23番ソナタ(熱情)に見ることが出来るのですが、ただ、この月光ソナタでは、その意図そのものは明快に現れているとしても、その「発展」、「成長」、の過程そのものは充分に描き切れていない感があります。と云うよりも、このソナタでは第3楽章の見事な華やかさに圧倒され、この楽章が主体であって、その前に置かれた1、2、楽章は第3楽章を盛り上げるために置かれた、単なる前置きと感じさせるところがあるのです。
●月光ソナタのピアニズム オーケストラのような「合奏」とは異なって、ソロ楽器特にピアノのような純粋なソロ楽器に対する作曲では、「名人芸」的要素を無視することが出来ません。名人芸的要素と云うのは、言い換えれば「実際に弾く楽しみ」と、そこから紡ぎ出される「現実のサウンド」との「リアルタイムの相関関係」です。これは、観念的なサウンドを頼りながら楽譜に音を埋めて行くオーケストラの作曲にはない要素です。ベートーヴェンの月光ソナタはこの「名人芸的要素」の大変大きい曲であると私は考えます。実際、このソナタの第3楽章で示されたピアニズムはベートーヴェンの全ピアノ作品中でもベスト3として数えられるものでしょうし、又、その後のショパンやリストなどピアニスト作曲家のそれに比べても全く引けをとらないものだと思います。 ベートーヴェンは、ピアノ曲として、基本的には、ソナタ、変奏曲、バガテル、以外のジャンルを殆ど書きませんでした。ロマン派のピアノ作曲家達が実に様々なジャンルのピアノ曲(エチュード、バラード、ラプソディ、アムプロンプチュ・・・)を書いたのとは随分様子が異なります。ただ、これらの中で、彼がもっともウェイト置いたのが「ソナタ」であると思います。だから、ベートーヴェンの場合ショパンやリストのエチュードやバラードやラプソディに該当するようなジャンルも「ピアノ・ソナタ」が受け持ったと考えることが出来ます。月光ソナタは、その中で「恰かも幻想曲であるかのような〜quasi Fantasia」ソナタ名付けられて提示された、ユニークなソナタなのです。このソナタはピアニストの名人芸を充分満足させてくれるピアニズムを備え、かつ、外面的なつまり演奏技巧だけの華やかさに頼らない緻密な構成を持っています。
●ベートーヴェン以降 シューマンの場合は面白い事に、ソナタ形式よりも、いわゆる「循環形式」の方に踏み出したように見えます。「謝肉祭」や「ダヴィッド連盟舞曲」、「クライスレリアーナ」のように小曲を束ねて、全体として大きなまとまった曲に構成する手法はシューマンのお得意ですが、ここに窺えるのは一つの基本動機を様々に変容させながら全体を構成して行く「循環形式」の手法そのものなのです。シューマンは「子供の情景」さえも、途中までこの手法で書こうとした形跡があります。このおかげで、この小曲集も「トロイメライ」くらいまでは非常に濃密な一体感のある小曲群で、聞き手側にあるまとまった印象を与えるのに成功しています。 ショパン、シューマンに限らずベートーヴェン以降の作曲家達は、この基本モチーフの発展による全曲統一と云う方向を大事に育ててきたように思います。考えてみれば、基本主題の展開・発展で全曲を形成する代表的な作法は「バッハ」によって最高に発展させられた「フーガ」の形式です。ただ、フーガは御存知のように主題(DUX)と応答(COMES)という、いわば二次元的なキャッチ・ボールによって曲が進行して行くために、ベートーベンのピアノ・ソナタに見られるような、ドラマチックないわば三次元的展開には向きません。フーガの持つこの表現上の弱点をカバーし、なおかつフーガのような濃密な一体感を表現できると言う意味で、ベートーヴェンがピアノ・ソナタの上で行った様々な試行錯誤が、後の作曲家達に大きな糧となったと云えると思います。 ベートーヴェンから100年以上経って、シェーンベルクが12音による作曲技法を編み出し、これを普遍的な技法であると確信したとき彼の念頭にあったのは、このバッハ→ベートーヴェンと受け継がれ発展させられてきた、基本モチーフの発展による音楽の統一的構成と言う流れであったと思います。「これで、今後100年間のドイツ音楽の優位が保証される」とシェーンベルクは云いましたが、そこには、バッハ(1685年)→ベートーヴェン(1770年)→シェーンベルク(1874年)と云うような年表が思い浮かべられていたのではないでしょうか。
●最後に シェーンベルクに限って云えば、彼の弱点はそこにあるように見受けられます。つまり、演奏する喜び〜名人芸の発露〜のような契機が彼の音楽、とりわけピアノ曲(のようなソロ楽器曲)に欠けています。私もHPに出そうかと考え、彼のピアノ曲を幾つか検討してみましたが、結局「弾いて面白い」と感じられる曲がない、ことに気がつき今のところ1曲も出していません。弾いて面白くないと云うことは、結局聞いても面白くないと云うことなので、この点はやはり音楽そのものの欠陥につながるのではないか、と考えたからです。 ここで、作曲と演奏という難しい問題が見えてきます。一般に、作曲家と演奏家と云う立場は、昔は演奏家が上でした。J.S.バッハも、良く云われるように、彼の時代にあっては「オルガンの名人」として知られていたわけで、現在の評価のように大作曲家として認められていたわけではありません。そもそも当時「大バッハ」と云うのは、息子のカール・フィリップ・エマヌエルであってJ.S.バッハはC.P.E.バッハの父として知られていたのに過ぎないのです。チャイコフスキーでさえも、彼のP協奏曲を、当時の大物ピアニスト、ルービンシュタインに献呈しようとしましたが、こんなものは(難しすぎて)演奏不可能、と云って突き返されています。この演奏家優位の事情は、現在でも流行歌、軽音楽のシーンでは色濃く残っていますが、ことクラシック音楽になるといつの間にか作曲家が優位に立つようになりました。ラヴェルは「左手のためのP協奏曲」を、第一次大戦で片手を失ったピアニスト、ウィットゲンシュタインの為に書きましたが、ウィットゲンシュタインが弾きやすいようにパッセージを少し変えた、ということに腹を立て、以降この協奏曲の演奏を禁じてしまいました。 ここから、作曲された音楽の価値の問題が見えてきます。音楽は最終的には演奏という行為を通じて実現されるわけですから、この契機はいわば「必須」です。そして、もしこれが必須の契機であるとするならば、音楽の価値の半分は演奏家によって決まる事になるわけです。この理屈が正しいとするならば、作曲された音楽の中には、演奏家を喜ばせる仕掛けが組み込まれていなければなりません。バッハのオルガン・フーガやベートーヴェンの月光ソナタには、この仕掛けが充分組み込まれていて、(多分何時の時代になっても)これらの曲を征服し演奏する喜びがあるに違いないのです。但し、この逆の方向もあり得ます。名人芸に頼りすぎる余り、音楽そのものの構成が粗雑で聞いても少しも面白くない、と云った類の音楽も、又、多く存在します。目の眩むようなスピードの音階や、超人的な和音の跳躍が連続しているだけでは大して面白くもないし、弾く気にはなれないものです。やはり、そこには音楽として良くまとまった、構成、一貫した内容、がなくてはならないのです。 ベートーヴェンの「月光ソナタ」は、この角度で眺めれば、この曲の持つ特徴が良く見えてくるのではないかと思います。この曲の第3楽章は、申し分のないピアニズムを備えています。それは、単に高度なテクニックが必要と云う意味ではなく(テクニック面からだけで云うと、この3楽章は超人的に難しいと云うほどではありません)、演奏者がそこに費やす努力が実際に「響き」となって返ってくる、その効率が非常に高い、と云う意味です。うまく弾けば弾くほどこの曲は「ピアノが良く鳴って」くれます。他面、曲の作りは緻密で、3楽章性であるにもかかわらず、1楽章を弾き終えれば2楽章が弾きたい(聞きたい)し、2楽章まで弾けば、フィナーレを弾かず(聞かず)にはおれないと云うような気持ちを強く持たせてくれる、濃密な一体感があります。実際、この曲はAdagio sostenutoを弾き始めればPresto agitatoの最後の和音を弾き終わるまで、気持ちを全く途切れさせない工夫が組み込まれていて、ベートーヴェンの作曲技巧の高さに驚かせられます。おそらく、ベートーヴェンはこの「幻想曲風」ソナタを最初から「ひとまとまり」のものとして作曲したのでしょう。 月光ソナタは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中で、必ずしも最高のものと云うわけではないと思います。個人的には、23番の「熱情」ソナタが、ドラマチックな3次元的構成と云う意味で、1ランク上だと思っています。ただ、名人芸的な発露と云った曲趣のピアノソナタとしては、おそらく最高で、同趣のロマン派ピアノ曲中でも、ショパンやリスト等に並びベスト10に数えられるものと思っています。
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