ニーチェの音楽

(1844〜1900)
哲学者として知られるニーチェ(Friedrich Nietzsche)は、若い頃から音楽にも強い関心を持ち、結構な量の作品を残しています。その語り口と内容から、《激越な》哲学者との印象が強いニーチェも、その音楽作品を聞いてみればその印象もかなり変化します。ここでは、このニーチェの作った音楽の紹介を兼ねて、ニーチェについて私の感想を書いてみたいと思います。
1)哲学者と音楽
ピタゴラスの昔から、哲学者には音楽に深い関心を示した人が多くいます。ルソー(ジャン・ジャック)はセミ・プロですし、ショーペンハウアー、ベルグソン、は作品こそ残していませんが哲学的思索の中に《音楽》の影響を色濃く定着させています。
●ピタゴラス
云うまでもなく、ピタゴラス式純正律の元祖考案者です(ピタゴラスの定理の方が有名かも知れないですが・・)。ピタゴラス自身はピアノやオルガンなどの鍵盤楽器が出来る以前の人ですから、ツァルリーノ(純正律の考案者)などとは同一に論じることは出来ませんが、完全5度(2:3の振動数比)を積み重ねてある種の純正音階が出来ることの基本を示しました(エッセイ「純正律と平均律」参照)。
●ルソー
彼は、かなりの作品を残しています。中でもオペラ『村の占い師』などは有名で、童謡《むすんでひらいて》の旋律原型が彼の作品であるという風に云われたりします。音楽についての論文や言及も多く、ラモー(のデカルト主義的和声論〜エッセイ「ショパンの和声」参照)に鋭く対立して、旋律第一主義の音楽論を展開しています。ラモーとの対立は、音楽的な趣味(や個人的な恨み)の問題だけではなく、ラモーの和声論が潜在的に持っていた、ある種の18世紀的合理論的な香りに対するルソーの反発と理解することもできます。ニーチェはルソーを非常に高く評価し「明敏なルソー」と呼んでいます。
●ショーペンハウアー
粗っぽく云えば、カントの《物自体》を《生きる盲目の意思》に置き換えて、世界の根元がこの《意思》にあると見た人です。この意思の直接の現れが《音楽》であるとし、芸術ジャンルの中で音楽に特殊に重い地位を与えています。この事は、単に彼が「音楽好きの」哲学者であった(彼はフルートを吹きました)、と云うだけではなく、カント的な不可知論に対し、「時間」概念との関連で世界の直接認識を示唆するベルグソンの「直観」を連想させます。いわゆる「非合理主義哲学」の元祖といわれる人で、正反対のヘーゲルらとは鋭く対立していましたが、ワーグナーと初期のニーチェに大きな影響を与えています。
●ベルグソン
一世を風靡したノーベル賞哲学者ですが、彼の哲学の中心で、彼が意識への直接与件と見なす《純粋持続》の概念は、音楽からの類推なしでは捉えにくい物です。作曲はしなかったようですが、音楽にはかなり深い造詣があったようです。彼の哲学は、後年の論文集「思想と動くもの」で自らが述べているように、哲学の不正確さに対する一連の「プロテスタシオン」であったと云うことが出来ます。この抗議の対象は、言語知性が必然的に含む「空間化された認識(の暴走)」であり、それに対して彼がよって立つ足場が《純粋持続》に対する《直観》であったわけです。
2)ニーチェの哲学
ニーチェは、1844年生まれのドイツの哲学者です。キェルケゴールと並んで実存主義の元祖と云われたり、人間の《生》を基本に置くことからジンメルやディルタイなどの《生の哲学》ジャンルに数えられたりします。しかし、私の考えでは、ニーチェはジャンルを超えて、特殊に深い見地から来るべき20世紀への警告を発し続けた《予言者》に見えます。
その警告の内容は、一言で云えば《家畜的賎民大衆》が支配する理不尽な世界到来の予告です。その意味では、一種の反民主主義的な反動思想と見えなくもありません。私たちは、カフカの小説(例えば「審判」)や、オルテガの著作(「大衆の反逆」)の中に、その警鐘の共鳴音を直接耳にすることが出来ます。しかし、ニーチェの警告は社会現象という皮相部分にとどまらず、それが成立してきた基盤そのものにまで及びます。この基盤の主たるものは《キリスト教的世界観》〜つまり、独特の目的論的時間論、及び、神の創造による世界の合理性への信頼〜であり、更に、これを支持基盤として成立した近代自然科学の体系です。ニーチェは、この《キリスト教的世界観》の否定を通して、その上に成立する近代自然科学とそれがもたらした近代的価値体系そのものをも否定するかに見えるのです。
20世紀を成立させた、二つの大きなモメントは《民主主義》と《科学技術》であると考えられます。ニーチェは結果的に、この双方とも否定してかかるわけですから、現代をその根底から否定することになります。畢竟、これを葬り去った後の世界が如何なる姿を見せるか、と云うニーチェの思想は非常に難解です。彼は《積極的ニヒリズム》と云う概念でこれを説明しようとしますが、《超人》《永劫回帰》《大いなる正午》、などのキーワードで示されるこの『新しい世界』については意味深長な詩や警句でしか表現されていないからです。しかし、それにもかかわらず、ニーチェの行った《否定》の強い響きは、世紀を超えて私たちに響いてくるように思えます。21世紀となった現在、今なおニーチェの警鐘が鳴り続けているのが聞こえるような気がしてなりません。
ニーチェは、その人種差別的言及や権威主義的な発言からファシズムの(特にヒトラーの)思想的基盤と見なされた時がありました。しかし、ファシズムが実は民主主義のゴール地点の一つであると判明した現在、ニーチェの民主主義否定の意味は、ファシズム自体の否定でもあることが分かります。何故ならば、ヒトラーは実にその賎民的主張故に、広く一般賎民大衆の支持を受けたわけですが、その支持の基盤はワイマール憲法と云う、典型的民主主義体制によって形作られたものなのですから。
彼は、20数年警鐘を打ち続けた後、1889年に発狂し10年間廃人として精神病院で過ごした後、20世紀到来前夜(1900年8月25日)に亡くなります。
【最初の作品】
彼は、子供の時から音楽に興味と才能を示したと云われます。哲学に専門的に入り込んで行く20歳頃までは、盛んに作曲を行ったようです。以下に示すのは、ニーチェ13歳頃のピアノ曲の一部で、初めての作品とされています。

●楽譜は私がCDから耳コピーしたものです。従って、拍子やアーティキュレーション記号など細部は異なっているかも知れません。
●これは曲の一部分です。曲全体、或いは他の作品を知りたい方は、この項の後半にWWWサイトを示しますので、そこにアクセスして見て下さい。
●楽譜部分に対応するMIDIデータを準備しました:
彼は正式な音楽教育は受けなかったようで、時折「?」と云うような音の配置が見られますが、しかし、全体としては、あるまとまったサウンドに仕上がっており、19世紀前半のドイツロマン派、特にシューベルトを思わせる音楽になっています。
【その後の作品】
ニーチェは20歳過ぎまで盛んに作曲を行いますが、21歳頃を境に哲学に興味が移り、作曲を行わなくなりました。バーゼルの大学で哲学教授になった1871〜1874年頃に、再び作曲に手を染めますが、その後は殆ど書かなかったようです(多分他のもっと重要な著作に忙しかったのです)。
1868年の秋に、ニーチェはライプチヒでワーグナーに初めて出会っています。彼はその時の事をこう記しています:
『彼(ワグナー)は、その時信じられないほど熱く生き生きとした感じで、早口にしゃべり、ウィットに富んでいて、このような集まりを大変賑やかにしてくれました。少しして、私は彼とショーペンハウアーについて少し長く話し込んだのです:これが、私にとってどんなに嬉しかったか分かってくれるでしょう。ワグナーは、自分がショーペンハウアーにどれほどの事を負っているか、そしてショーペンハウアーが、音楽の本質を知っている唯一の哲学者である事を、熱っぽく語ってくれました。それから、彼は現在の哲学者達の間で、ショーペンハウアーがどのように扱われているかを訪ね、プラハでの哲学者の集まりを笑い、「哲学の下男」に」ついて語ってくれました』
ここから見て取れるように、大音楽家ワーグナーに会ったのは、ニーチェにとって感激であったには違いないのですが、それは自分自身の音楽にとってではなく、その頃彼が強い影響を受けていた、ショーペンハウアーについて同様の理解者に出会ったと云う方が強かったのです。ただし、この影響もあって1871年から少しの間ニーチェは再び作曲に手を染めます。4手用のピアノに編曲された「トリスタンとイゾルデ」を手に入れ、これに触発されて再び作曲への意欲が出たものと思われます。
結局の所、ニーチェの作曲は殆ど注目も評価も得ませんでした。哲学上の才能の大きさに比べれば、殆ど取るに足らないものであったと云うことでしょう。ずっと後で(1887年発狂の2年前)、過去を振り返って次のような手紙を書いています:
『・・・私ほど、本質的に音楽家であった哲学者はいない。しかし、そうであったとしても、私が全く成功しない音楽家であったかも知れない可能性は充分にある』
【作品とCD】
現在、ニーチェの作品が収められた2枚のCDが手に入ります。
"The Music of Nietzsche vol.1"(TROY
178)
"The Music of Nietzsche vol.2"(TROY
181)
http://www.albanyrecords.com/cgi-bin/miva?Merchant2/merchant.mv+
それぞれに収録されている曲目内容は、次をクリックして下さい。
又、以下のサイトでニーチェの詳しい解説と、演奏の1部分を聞くことが出来ます(要:Quick Time)。
http://webster.dartmouth.edu/~fnchron/index.htm