音楽療法雑感

【はじめに】
この文章は、Kさんとおっしゃる、兵庫県内のある精神病院に勤務し、そこで、主に精神分裂病患者を対象に、日々音楽療法を実施しておられる方に対し、何らかのお役に立てればと考えて書いたものです。多くはKさんとの、電話でのやりとりを元に、その線上に沿って書いていったものですから、若干「屋上屋を継ぎ足す」ような構成になっていて、分かりにくい部分があるかも知れません。ただ、この分野(音楽療法)の根本的な問題に論究した文献は少なく、音楽《療法》と音楽《慰問》の区別がつかないような現状があることも事実です。その意味で、同じ「音楽療法」に携わっておられる方に、何らかのヒントにでもなれば・・、との考えから、ここに公開することにしました。又、論旨の特性上、私自身の「音楽美学」に関する考えの表明にもなっており、精神病に関係なく「音楽美学」の一種としてお読みいただいても良いかと思います。

なお、本来は、これに具体的な楽曲とその内容の分析一覧表が附属していますが、それは、ここでは省略しています。

基本的なスタンスは、先ず、分裂病を人間特有の「言語=知性」の(何らかの原因による)暴走と捉えることです。これに対し、音楽を「非言語的認識」と捉え、前者(言語的認識)の後者(非言語的認識)による何らかの「補完」可能性と云う問題について考えています。「言語」は、通常「他者への伝達機能」と、シンボル化による「現実構成(認識)機能」、の二つの側面があると考えられていますが、ここでは「シンボル化による現実構成機能」に大きなウェイトを置き、これを見つめる態勢を採っています。この点、若干哲学的足場の相違を感じられる方もおられるかも知れませんが、よろしく斟酌をお願いいたします。


【概要】

基本的な目標は、人間(患者)に音楽を聞かせて、「何らかの反応が起きた」と見えるときに、その人間に何事が起きているのかを「一般的に」理解することです。音楽が、本来の《楽しみ》に用いられる場合には、このような理解は全く無用です。内部で何が生じていようが、本人がそれなりに《楽しんで》いれば、それで良いわけですから。しかし、音楽が《慰問》ではなく《治療》目的で使用される場合には、そうも行きません。この場合、音楽療法士が、患者に対し、薬品を調合すると同じように、音楽を調合し、与え、反応を見ながら、次の段階に進む、と云うような手順を踏まなければならない訳です。この目的で、なるだけ《一般化した》状態で、音楽に対する人間(患者)の反応を理解しておく必要があり、ここでは、この問題の一般的な理解、つまり《図式化》を試みようと思います。

但し、ここで云う、理解のための「図式」は単なる仮説であり、又、直接検証可能な実証的な命題でもない、いわば形而上学的な図式で、従ってこの図式そのものを打ち立て、立証しようと云う意図はありません。目標はこの《正しい図式》を打ち立てることではなく、「図式的に」理解するための仮の道具としての「図式」を手に持つ、と云うことです。

このために、一般に(患者を含めて)人間が、「現実」をどのように捉えているのか、を理解し、そして、そこに「音楽」のような特別の刺激が加わったときには、何が起きるのか、を推測できるような手がかりを持っておくことが必要だと考えます。

人間は、独特の知性=言語を持っていて、常に、この能力を通して「現実」を把握しようとする傾向が非常に強いように思われます。これに対し、分裂病患者は、おそらく、この「現実」の捉え方に、何か特別の変位を生じさせていると考えます。分裂病の特徴である、幻視、幻聴、などのいわゆる「幻覚」は、正常者では「誤謬」として即刻訂正されるべきものが、訂正がなされないまま持続しているものと考えられます。ただ、分裂病患者も「人間」であることには変わりなく、基本的な「現実」の捉え方は正常者と同じ図式であろうと考えています。それどころか、(これは私の勝手な推量ですが)分裂病者は、逆に、現実認識に於いて、あまりに人間的な要素が多すぎるのではないか〜つまり人間特有の「言語=知性」の過多症ではないか〜と考えられるふしがあるのです。

一般に音楽を聞かせると、「聾者」でない限り(又、興味深いことに「聾者」であっても)何らかの反応が起きます。多くの場合、「音楽」を聞かせたときの反応は、単に「音」を聞いた時の反応とは異なります。クラクションや時報や、或いは雷鳴など、単なる「音」に対する反応と、「音楽」を聞かせた時の反応は、あきらかに違うのです。しかし、それがどのように異なるのか、を理解するのはなかなか難しい問題です。この違いを考えるに、粗っぽい言い方ですが、おそらく、クラクションなどの「音」は、人が、現在面している(了解している)「現実」に組み込まれていて、多くの場合、これらは、人に何らかの「行動的反応」を直接引き起こします。これに対し、「音楽」は現在のものとは別の「現実」を人の中に起動させるように見えます。人は、その新しい「現実」に直面し、一時、それまでの現実を離れ、新しい現実をを理解しようと、体を停止させ、耳を澄ますように見えるのです。この事態を、「現実」の入れ替え、又は、「多重化」が生じていると、私は表現します。

実は、この「現実の多重化」が、私がここで考えようとする問題の基本モチーフです。一般的に云って、私たち人間は、多層の「現実」を常に切り替えながら生きているように見えます。

比喩的に云えば、これは、幾分、パソコンの「スワップ」動作に似ていなくもありません。現在、差し当たって処理しなければならない問題をRAM上に展開し、その他は一旦HD内のスワップ領域に待避させます。メモリの少さいパソコンで作業すると、このスワップ動作が頻繁に起き、何もしていないのにHDがジーコジーコと動いたりしています。

ただ、ここで着目しておきたい問題が2つあります。

一つは、これらの多数の「現実」は、互いに無関係に「散在」しているのではなく、階層化され、何らかの順序を持っているのではないかと見えること(建物の比喩で云えば、広い敷地に点在する平屋の一軒家の集まりではなく、何階にも重ねられた高層住宅のようなもので、各階〜すなわち一つの現実〜は、お互いに上下関係があり、階段やエレベーターでつながっている訳です)。

今一つは、それらが、建物に喩えれば、個別の空中楼閣として存在するのではなく、何らかの共通の基盤の上に建造されているのではないか、と云うことです。

この階層化(順序)が崩れると、それらの「現実」は「妄想」に転じる場合があります。しかし、それでも、建物自体は共通の基盤上に建造されているのであって、階段を伝って階層を下って行けば、その内に基底部分(実在)に降り立つことが出来る可能性は、常にあるのではないか、と考えます。

音楽に限らず、芸術一般は、人間に、異なった「現実」の「起動」或いは「入れ替え」を発生させるように思います。私たちは、常にそれを行って体験的に良く知っています。小説に没頭しているとき、目をつむって美しい音楽に聴き入っている時、素晴らしい絵画を目の前にして、これに見入るとき、・・全てこの類です。

しかし、芸術を抜きにして、一般日常生活中にあっても、この「入れ替え」「起動」は、常時発生している現象ではないか、と私は考えています。そして、ここに何らかのトラブルを抱えている場合、「うまく起動できない」、「うまくスワップできない」、という障害が発生する余地があるのです。この入れ替えがうまく行かない場合、パソコンの場合なら「不正な処理をしました、強制終了します」で、事は済むのですが、いざ、生身の人間の場合、その人は「妄想」の世界にいるように見える訳です。

しかし、先走らないでおきましょう。入れ替わるべき「現実」とは何か、とか、何故、どのように入れ替わるのか、とかの詳細をもう少し煮詰めないといけません。このために、先ず前半では「言語=知性的」な現実認識について、少し突っ込んだ分析を行い、それに対する私の考えを述べてみます。次に、「非言語的」認識について分析し、私の考えを述べます。非言語的認識は(殊に人間の場合)言い換えれば、美的認識、芸術的認識、でもありますから、この部分は美学論に近いものです。最後に、芸術の中でも、純粋に「非言語的」表現を持つ「音楽」を採り上げ、この音楽による《言語的認識に対する補完》の可能性を考えます。

私の考えでは、もし音楽療法に、単なる患者の《慰問》とは異なる何かがあるとすれば、この《言語=知性的認識》に対する《非言語的認識》による補完、以外にはないのではないか、と思うところがあるのです。

【本論】

『言語的認識』〜知性

[1]現実とシンボル化

人間は、独特の方法で状況(現実)を捉えます。先ず、これを確認しましょう。
分かりやすいように、具体例から入ってみます。先ず、下の文章を読み、一つ「状景」を思い浮かべてみて下さい。

「林の中の道を歩いています。道には石ころが転がっています。鳥の鳴き声が聞こえます。」

私たちはこれを完全に理解し、それどころか、何の抵抗もなく、一つの「現実」と受けとることが出来ます。
しかし、この中のそれぞれの項目:

「林」、「中の」、「道」、「歩く」、「石ころ」、「転がる」、…などは全て、ある特定の対象物ではなく、一般的に他の対象物にも「適用」可能な概念です。つまり、「林」は何年何月現在の、どこに存在する「林」であるかを特定しなくても、「石ころ」は、何時何処にどのように転がっていた、どの石であるかを特定しなくても、これらは全体で、ある「現実」を示すと考えられます。つまり、この文章は、具体的な特定の「現実」は何一つ示してはいないのにも拘わらず、私たちに《ある「現実」を与える》ことに於いて、その役割を充分に果たしている訳です。一般に、私たちが「現実」を捉える(或いは捉えたと思っている)時の、その現実の構成要素は、このような独特の機能を持った概念であり、それらの総合を私たちは「現実」として捉えているのです。このような独特の概念を、シンボルと云うことにします。

この例は文章で書き表したので、完全に、シンボル=言語のように重複していますが、歩いている本人にとっては「言葉」によってではなく、直接周囲の状況を「視覚」や「聴覚」で捉えられているわけですから、非常に良く似ていますが、シンボルと言語は全く同じ物ではありません。歩いている本人は、言葉で説明されているわけではなく、石ころや鳥の声を視覚や聴覚から受け取り、これをシンボル化して現実認識を行っているわけです(しかし、あたかも言葉で説明されているかのうように理解するのです)。

シンボルという概念は、哲学的には比較的新しいもので、伝統的な「観念論」「実在論」「経験論」「合理論」等の対立をうまく中和する形で使われます。基本的には、数学を模した記号論理学的な立場からの派生と考えられますが、カッシーラーなどの努力で、実証科学的な分析の際にも大変重宝する概念として整えられましたので、ここでも、この「シンボル」と云う独特の概念を多用することにします。

さて、一般に、人間が現実を捉えるにあたって、このシンボル化作用のウェイトが非常に大きい、という事を理解する必要があります。逆にこのシンボル化作用がなければ、私たちは充分に現実を捉えられない、と行った方が正しいのです。おそらく、この「シンボル化作用」がなければ、歩いている人にとって、現実の光景は、「本人(の視点)が移動する」ことによって、「刻々変化する」複雑な「模様」です。この奇怪な「動く模様」の中では人間は一歩を踏み出すことさえ出来ないのではないかと思います。

余談ですが、ある種の昆虫(例えばハチです)は、この複雑に変化する「模様」を(ハチは複眼ですから、もっと異常に複雑でしょう)、そのまま「現実」と捉えて、生活、運動しているのではないか、と思えるふしがあります。非常に高度な帰巣本能は、この人間的な「シンボル化された」現実からは理解できないように思えるからです。

又、余談ですが、例えばゴッホの画で、不気味に歪んだ景色が描かれる場合、これはデフォルメではなく、本人が見たままを描いたのではないかと思うことがあります(ゴーギャンなど理論的・意図的にデフォルメした場合は異なりますが・・)。これは、ひょっとして、ハチの捉えた現実の光景に似ているかも知れません。

本題に戻ると、私たちが通常、「現実」と捉えている物は、人間的に「再構成された」一種のシンボルの総合体で、決して「あるがままのもの」に直接触れている、いわば、「直接体験」の鏡のような反映ではない、と考えるわけです。この辺りは、若干カント的な香りがしますが、カント特有の先験的直観形式とか悟性カテゴリだとかの詳細を捨象すれば、まあ、大体誰が考えても同じ様な結論であると云うことです。

 

[2]シンボルと言語

基本的には「シンボル」概念は人間の持つ「言語」を参考にして導かれたもので、機能的には、ほぼ言語と同じと考えて良いと思います。人間は言語を持つ唯一の生物で、他のどんな高等動物も言語を持っていると云った証拠は見つかっていません。チンパンジーやイルカ、カラスなどは、一種の合図としての音声表現は持っているようですが、シンボルとしての(つまり、自在にそれが適用される対象を入れ換えることが出来、従って、様々な組み合わせが可能である)言語は持っていません。なお、このような「一種の合図」を、「シンボル」に対して「サイン」とか「シグナル」とかと言う言葉で示すことが多いようです。逆に言えば、どのような原始的な人種でも、常に「完全な」シンボル言語を持っていて、アーウーと云う合図だけで生活する人種は見つかりません、これが人間とその他の動物を区別する最大のポイントです。

余談ですが、トーテミズム(トーテム信仰)と云う、未開の部族によく見られる習慣に於いては、自然界の動物や植物(の種が)、恰かも言語のように扱われ、特有のシンボルとして用いられるという研究があります。昔からある、この興味深い課題は、レヴィ・ストロースなどのいわゆる構造主義の研究者が一応の決着をつけた、と思われます。要するに、単なる原始的な呪術、まじない、で片づけるよりも、人間が本質的に持っている、言語=知性的傾向が直接反映された結果であると云うものです。ただ、面白いのは、トーテミズムが自然界の動物や植物の種を対象物に成立していることで、シンボル化の初期状態で、食物(の対象となる動植物)を探す、と云った、非常に生物学的な行動が重要なファクターとして働いていることに気が付きます。要するに、本来、非常に生物的な実用的行動を基盤に発生した、シンボル=言語を、思弁的な用途に使用する「ツケ」は、結構高いものについているかも知れないのです。この、結構高くついた「ツケ」の回し先が精神病者(特に分裂病)ではないか、と云うのが私の考えの基本的モチーフです。

又、余談ですが、何故、人間だけがシンボルとしての言語を持ち得たのかは、現在でも、依然として謎のままです。ひとつ云えることは、文節を明確に区切って発音させ得る特殊な運動能力が人間にあって、これが、単なる吠え声、や鳴き声のような「合図」を、明確に「単語」として分割できる「シンボル的言語」に進化させ得た、大きな要因ではないかと云うことです。人間の脳の一部にあると考えられる「言語の為の分野」は、例えば辞書のような単語のいっぱい詰まった、いわばパソコンのメモリ様のものではなくて、この言語発声のための特殊な「運動能力」をつかさどる部位ではないかと云う考えがあります。100年以上昔に、フランスの哲学者ベルグソンが著書「物質と記憶」の中で、この考えを提出しました。自分の子供の失語症がこのことを考えるきっかけであった、とか云われていますが、個人的な詮索はさて置き、私はこの考え方が、基本的には正しいのではないかと思っています。

又々余談ですが、この特殊な発音の為の運動能力と機構はオウムや九官鳥も持っています(ただ、彼らの脳ミソは如何にも小さすぎる為に言語は持ち得ていませんが)。これは、タコなどの軟体動物が(進化系統樹上は遠く離れているにも拘わらず)人間と非常に良く似た目の機構を持っているのに似て、進化上の綾を感じさせてくれます。

 

[3]シンボル、言語、知性

シンボルは、多様な対象に自在に適用できます。[1]での例を採れば、「林」の中を歩いているのであれば、それが、「何時」、「何処の」、或いは「何の」林であるかは基本的には前面に出てきません。又、聞こえる「鳥の鳴き声」は、例えば「カラス」であれば良いわけで、どの「カラス」であるかと言う個体の識別は含まれません。もっと云えば、「カラス」と言う特定の種でなくても良く、「鳥」と云う「類」一般を指しても構わない訳で、「ヒバリ」でも「ウグイス」でも構わないのです。つまり、各項目は自在に変化しても、全体が示すある一定の「変化しない」要素を含みます。

これは、形式的には、ちょうどax^2+bX+c=0と云うような変数項を含んだ方程式と同じです。各変数は自由に変化しますが、変数項どうしの関係は変化せず、全体である一定の変化しない部分を含んでいると考えられます。これが、論理とか知性とか云われる物です。「論理」「知性」「理性」「悟性」などは、時代とそれを使用する哲学者によって、様々なニュアンスで語られてきましたから、若干錯綜していますが、ここではそのような専門的な詳細にはこだわらず、シンボルとして表される変数項a,b,c,・・を含む関数 f(a,b,c,・・)位に捉えておきます。

余談ですが、いわゆる「言語」の中には、必然的に「論理」が内在し、このシンボルどうしの関係性のみを採りだして論じるのが「論理学」ですが、これをもっと数学的に正確に定義された演算として扱おう、と云う試みは、ライプニッツの昔から計画されて来ました。20世紀に発展した記号論理学或いは、数学的論理学と云うのは、この系統の子孫です。ラッセル、クワィン、ウィットゲンシュタイン(余談ですが、この人は例のラヴェルの「左手のための協奏曲」の張本人の弟です)など、この分野で頑張った人たちは、皆、数学者で、考えてみれば、ライプニッツも、「微分」に関してニュートンとほぼ同じに(かつ、独自に)考え出した人ですから、数学者です。類人猿がある時期(おそらく数十万年前)に、独特の発声、発音の運動機能を獲得し、これによって言語(シンボル化)と言う手段を手にした時から、現代数学に至る一直線の太い道が見えるような気がします。言語は、本来「数学」と本当に近い関係を結んでいるのです。

 

[4]シンボルとして捉えられた現実の特徴

誤解を恐れずに言い切ってしまえば、シンボル的に捉えられた「現実」の特徴は:

●時間性の欠落
●誤謬の存在

この2つです。

●時間性

時間性の欠落(或いは消去と云って良い)は、シンボル化には必須の条件のように見えます。シンボルは、その外延として様々な個別的対象物を示し得ると考えられますが、しかし、まさに、それ故にシンボル自体は、一種の無時間的な特性をもつ必要があります。例えば、「桜の花」をシンボル的に把握する場合には、その花が、何時何処に咲いているのか、と云った個別的な限定は捨象されて、「桜の花」と云う一般的なイメージで把握されます。現実に咲いていなくて「想像上の」桜でも構わないのです。私たちが、満開の桜に面して、「桜が咲いている!」と把握した瞬間に、それは眼前の桜とは別の、一般的なシンボルとしての桜に取って代わられます。この問題は、シンボル相互の結合(つまり論理)を考えたときに、より明確な問題として浮かび上がります。例えば、シンボルどうしの結合の最も基本的な形式である「A=A(AはAである)」と云う、いわゆる「同一律」を例に採ってみましょう。「桜は桜である」「梅は梅である」・・これらは、自明に正しく成立するように見えます。しかし、今、Aに「私」と云う概念を代入してみましょう。一見「私は私である」は、自明の真理のように見えます。しかし、「時間性」を導入して考えると、自明の真は崩れます。実在する「私」は根本的に「時間」の持続の中に成立しています。そこに着目すると、最初の「主語」である「私」と述語である「私」が、完全に同一である事は不可能です。要するに、主語の「私」はこの判断を始めようとしている「私」であり、述語の「私」はこの判断を終えた「私」です。この判断経験を経た「私」と経験を経ていない「私」が同一であるはずがありません。この、時間性を置き直してみると、論理学上の最も基本的なルールが成立しなくなる事実は、シンボル化されて捉えられた「現実」は、直接の「生」の現実とは随分異なっていて、ある意味で「扱いやすい」ように「再構成された」、いわば、「人為的な現実」である事を示唆します。つまり、私たちにとって、「現実」は常にある「持続性」の中に成立すると考えられますが、これをシンボル化して捉えようとすると、どうもこの「時間」の問題を、なるべく「見ないように」して再構成しなくては、ならないのです。

余談ですが、実在を、純粋なシンボルの体系と考えられる「数学」によって捉えようとする場合(つまり近代の物理学です)、この時間性(つまり運動)を何らかの形で組み込まざるを得なくなります。ニュートン、ライプニッツによって考え出された「微分」概念は、この必要性を示しています。ただ、これも当初は「無限小と無限小」の「比」と云う、極めて収まりの悪い形式を採らざるを得ませんでした(つまり、[無限小]/[無限小]は0/0と、どない違うねん、と云うことです)。有名な、運動の本質として「質量と速度の積」をとるか、「質量と速度の二乗の積」をとるか、のライプニッツ対デカルト主義者の当時の論争は、この経緯を示しています。この収まりの悪さは、20世紀に入って、ラッセルらによる集合論を使った見直し作業が完成するまで、収まりの悪いままで放って置かれた訳です。ただ、現在でも、完全に収まったと云うわけでもないように私は思っています。

又々余談ですが、ギリシャ時代からある、いわゆる「ゼノンのパラドックス」も、全く同じ根の問題です。要するに、人間はシンボル化して現実を捉えようとする傾向が強く、こうして捉えられた「現実」の上に「時間性」を導入しようとすれば、その現実はいつも「軋む」のです。シンボル化と「時間性」は本当に相性が悪いのです。

●誤謬

誤謬、錯誤というのは、精神分析学でポピュラーな課題で、フロイトも様々な形で言及していますが、ここではもう少し形而上学的な図式で考えてみます。

ポイントは、「誤謬」はその「訂正」があって初めて成り立つ、と云うことです。誰かの後ろ姿を見て、その服装や体型から「××さんだと思いこみ」声をかけたとします。その人が振り返って正面から顔を見た瞬間に間違ったことに気づきます。これが「誤謬」です。つまり、「誤謬」は必ず「訂正」されることによって成立する訳です。

ここには、二重の「現実」が存在します。「誤った」現実とそれを「訂正」する現実です。しかし、この「訂正」する「現実」が、再び「誤謬」でない保証は何処にも存在しませんから、この第2の現実が「絶対正解」と云うわけでは決してありません。第3の現実によって、再度これが「訂正」される可能性は常にあるのです。つまり、この意味での現実は《無限に多重化して行く可能性》があるわけです。

ところで、私が××さんに(似た)人を見かけ声をかけた、と云う現実は、ただ1回限りの出来事であって、この意味での「現実」自体が、2つも3つもあるわけでは決してありません。と云うことは、この唯一の現実から、無限に多重化する現実を発生させる、何らかの仕組みが我々の中にあるのです。おそらく、ここに「シンボル化されて捉えられた現実」が、大きく関与しています。

上の例は、ある別人の後ろ姿が××さんと、その「背格好」「服装」などの項目で一致したことによって引き起こされた訳ですが、人間にはもっと興味深い誤謬が生じる可能性があります。最初の「林の中を歩いている」例で、この「林」を「林(人名)」さんと、取り違える場合です。これは、「林」の発音が同じであることから来る誤謬です。このようなケースの簡単な例は、日常よく起きることです。似た言葉の、ちょっとした言い違い、聞き違いで、これに関してはフロイトが、かなり詳細に分析しています。しかし、ここではもっと極端な例を考えてみます。「林の中を歩いていて、道には石が転がっていて・・」と云う状況に対し、「林」を「林満代さん」、「石」を「縊死」としたときには、「林さんの胎内を歩いていると、周りに首吊り死体がゴロゴロ転がっている」と云うような、シュールで不気味な光景が見えてきます。

通常、このような誤謬が起きる事はないように思われますが、夢の中ではあり得ます。このような不気味な夢の光景は、通常の人でも、経験することが多いものです。このような不条理な夢での経験を、後からよく分析してみると、言葉の「発音」の類似によって、あるシンボルが、思わぬシンボルにショートしてしまった事が原因である事に気づく場合があります。今、この問題を深く極めることはとても出来ませんが、言葉に関するベルグソンの説〜言語が発音と言う特殊な一連の「動作」に深く根を下ろしている〜が正しいとすれば、充分にうなづける事です。実際、私たちは黙考しているつもりの時でも、潜在的に発声のための筋肉を動作させている場合が多く、これが場合によっては独り言となって実際に発音される場合もあります。又、夢を見ているときでも、そこに出てきているものを「言葉」として潜在的に発音している事が多いのは、浅い夢から覚めた直後に気づくことがあります。この発音動作の類似性が、思いもかけない単語同士のショートを招くことは大いに考えられることです。

要するに、現実を、「いくつかのパーツ(シンボル)に還元し、これの一定の組み合わせ(論理)による配置として再構成する」方式が、人間的な現実の捉え方の基本であるとするならば、パーツの入れ替えによって、常にこのような誤謬〜「単なる人違い」から「不条理で不気味な光景」まで〜が生じる可能性はあるわけで、唯一の現実を直接体験して生きている、下等生物とは根本的に異なるところがあるのです。

 

[5]誤謬の訂正と現実との接触点

「誤謬」は、それが「訂正」される事によってはじめて「誤謬」として成立します。さて、[4]で書いたような現実認知における誤謬はどのようにして「訂正」されるのでしょう。

「人違い」の場合は、単純に図式化する事が出来ます。一方、「不気味な夢の光景」は、見かけは単純ではありませんが、よく考えれば同じで、双方に共通の図式が見つかります。

つまり、どちらも「より多くの新しい情報」によって、第2の現実が形成され、これが第1の現実を「訂正する」訳です。「人違い」の場合は、××さんがこちらを振り向いた時に得られた「正面像」が、自分の持っている「××さん」の正面像データと一致しなかったのであり、夢の場合は、目覚めたことによって、他の情報〜ベッドの中にいる自分、や部屋の景色〜が新しく得られ、これによって構成された第2の現実が、先の現実(夢)を訂正するわけです。ただ、先に書いたように第2の現実が絶対的な「真」である保証はなにもなく、第3の現実によって訂正される可能性は常にありますが。

実は、この訂正の構造はもう少し込み入っていて、第2の現実が第1の現実の「訂正」を行える資格は、これが、「第1の現実が誤って構成された原因」を説明できる場合に限ります。しかし、この問題は深入りしません(すると、ややこしい問題が次々に出現しそうです)。云えることは、常に第2、第3、の現実が出現する可能性があること、そして、そのためには、私たちが、そのように泡のように現れる多重現実の「元祖」に、常に触れていなければならないのではないか、と云うことです。隠喩的に云えば、「火のないところに煙は立たない」訳で、常に「火もと」は燻っているのではないかと云う事です。おそらく、私たちは、このシンボル化し再構成して捉えた多重現実の背後で、原現実(実在)に常に触れているわけで、これを根拠として、第2、第3の現実が泡のようにわき上がってくるのではないか、と思うのです。

[4]で例にとった《満開の桜を眼前にした》場合を、もう一度考えてみると、桜の前で「アッ」と足を止め、感動した瞬間に、私たちは何らかの実在に接触している可能性があります。しかし、その直後「桜の花が咲いている」とシンボル=言語的に再構成された現実が現れ、いわゆる人間的な世界に引き戻されます。この人間的な現実は、先にも触れたように、「無時間的」であり、「誤謬を含む可能性」があり、第2、第3の現実に多重化する可能性を秘めています。しかし、「アッ」の瞬間は、たとえ、この桜が造花の偽物であったとしても、本物であったとしても、ただ1回限りの「アッ」で、後にこの桜が偽物であったと判明したとしても取り消される訳ではありません。「アッ」に誤謬はないのです。

昔から、芸術家はこの「実在」との接触と、その直後に来る、言語=シンボル的、人間的、或いは実用的、に再構成された現実との間隙を捉えて固定化しようとしてきました。この「誤謬」のない「1回限りの〜つまり時間性を持った」世界を、「美」の世界と見なしてきたからです。

余談ですが、このシンボル的に再構成された現実(ある意味では意識的な現実と云っても良い)と、実在との時間差が、実際に測定できるかも知れないような実験結果が最近見あたります。例えば、「手を動かす」と云った随意運動時の脳波の測定を行ってみると、通常の考えでは《動かそう》と云う意志が働いて、その結果が手に伝わり《手が動く》のですが、脳がそれらしい活動を見せるのは、手が動いた一瞬後である、と云う実験結果なのです。まあ、云ってみれば《手が動い》てから《動かそう》と言う意志が生じているように見えるわけです。これは、どこかで見かけた実験結果で、随分眉唾の部分もあり、私は、測定条件の詳細を知りませんから、簡単に信用するわけには行きませんが、脳が《実在》との接触から一瞬遅れて《現実》を再構成している、と考えれば、それほど不思議なことではありません。要するに、外界の受動的な認知だけでなく、意識的な意志(全ての意志がそうであるとは云えませんが)さえも、後から再構成されて捉えられているかも知れない、と考える余地はあるのです。

又、余談ですが、既視現象(デジャ・ヴュ)に関して、ベルグソンのユニークな見解があります(「現在の回想と誤った認識」〜1908年)。多分に形而上学的ですが、基本的に現実の多重化でこれを説明しようとするもので、デジャ・ヴュ現象に関する、(おそらく、唯一の)総合的見解ではないかと思います。ここで、示唆されている「現在の多重化」は、心理学的に実在と現実との間隙を暗示する、大変興味深いものです。

 

[6]言語=シンボル的「現実」と「原現実(実在)」

[5]では、この言語=シンボル的な「現実」の特徴として、「時間性の欠落」「誤謬の存在〜現実の多重化」を見ましたが、ここでは、もう少し異なった角度から、この、極めて人間的な「現実」の構成要素を確認しましょう。

言語=シンボルを、長い歴史の中で形成し発展させてきた「要因」、をざっと考えてみれば:

●生物的要因
●社会的要因

の二種に分かれます。

生物的要因の第一は、動物であることです。私たちは動物として頻繁に動き回ります。この視点の移動によって周りの景色は常に変化し、この目眩を起こすような景色(模様)から、ある対象物を切り取り、これを目安に自分自身の位置を相対的に認識する必要があります。この「空間の切り取り」作業が、先ず第一の大きな要因です。言語=シンボルが本質的に「視覚的」な特徴を持つ(言い換えれば非常に空間的な特性に馴染み、時間的な質を脱落させている)ことは、恐らく、この要因に多くを負っています。

余談ですが、この意味で、本質的に「移動を行わない」植物に、もし、言語(知性)があったとしても、それは余程異なったものになるはずです。

又々余談ですが、「空間」概念に本質的に含まれる「等方位性」は、私たちが自由に動き回る「動物」であることに端を発していると考えられます。空間概念が更新され、アインシュタインの「4次元時空連続体」になっても、やはりこの「等方位性」は、どこかに根を下ろし、影を落としているような気がします。

第二は、捕食行動です。景色から切り取られた対象物を、エサであるかどうか判断する必要が常にあります。例えば、ライオンがシマウマを見つけたときに、これはエサであると判断するでしょう。この場合、シマウマの個体的弁別は全く必要なく、ただ「エサ」として適する「種」としてのシマウマであれば良いわけです。これは、まさにシンボル=言語化の第一歩ではないかと思われます。

なお、第三は人間独特の(おそらく突然変異的に得られた)音節を区切る発声能力の獲得がありますが、これは前述しました。

次に、社会的要因です。

人間は、シンボル=言語のキャッチボールを行うことによって、他者との意志疎通を行います。逆に、このキャッチボールの中からシンボル=言語が形成されて来たのだ、と云うこともできます。このことは、シンボル=言語が、その発生&形成途上で、個人的な要素をどんどん剥離させ、「他者との共通部分」だけをその本質として残してきた、と云うことです。満開の桜に出くわした時、その人は確かに何らかの実在に触れています。しかし、これを「桜が咲いた」と云う、シンボル=言語的に現実把握した途端、その人がその時点で個人的に抱いた、種々の感慨、感動、は全て剥離し、《他者との共通部分として》「桜が咲いた」事実のみが切り出され、出現するのです。恐らく、この「事実」は、「桜が咲いたゾ」・・「そうか、桜が咲いたか」・・のように次々に他者に伝わり。事実として共有されます。しかし、その人が「実在」と接触することによって、最初に抱いた個人的諸々の要素は、何も伝わりません。

さて、このような「他者とのやりとり」は、言い換えれば、シンボル=言語が、それ自体、「思考」の「対象」にされ得る、ということです。「満開の桜」に出くわした人から、「桜が咲いたゾ」と云う情報を受け取った別の人は、「満開の桜」に直面した人の「体験」全てを丸ごと引き受けるわけでは決してありません。そこから、「桜が咲いた」と言う「事実」を理解し、そして、思考、反省の後、その事実の「意味」を自分の中に「反響させる」のです。この過程には、「桜が咲いた」と言う、シンボル=言語的表現から、「桜が咲いた」と云う事実を自分の中に形成する作業が先ず含まれます。そして、この形成された「事実」から、その意味を抽出する作業が続きます。この「意味」の反響全体が、この人にとっての「現実」となります。この「意味」の、最も一般的な内容は「春になった」「季節が巡ってきた」でしょう。人によっては「種まきを始める時期が来た」と解するかも知れません。ただ、解釈はどうであれ、人は、この「意味」を抽出するために「桜が咲いた」と云うシンボル的現実を思考の対象にしています。

 

『非言語的認識』〜芸術

[7]芸術とシンボル

フロイト流に云えば、芸術は、言語=シンボル的に構成される現実から抜け落ちてしまった実在の表現である、と云う事になります。言語=シンボルは、この発生途上で、様々な要因を抱え込んできており、これらの要因が、私たちが触れている筈の実在から様々な物を「濾過」し、その結果として、いわゆる「人間的」現実を構成すると考えるわけです。「ものを認識することは、ものを見ない努力である」と誰かが云いましたが、芸術は、だから、この「見ない」で放って置かれたものの、いわば「怨念」と云うわけです。

この事を理解するために、[6]の内容を図式に書いてみます。

 

(1)「満開の桜」に出くわしたときの全てが含まれます。通常ここが意識的に認識されることはなく、一瞬で(2)に移ると考えます。但し、ここを全てが含まれる「豊かな土壌」と見なすかどうかは別の問題です。

(2)今まで説明してきた「人間的な」現実です。時間性の欠落や、多重性(誤謬の存在)、個人的で特殊な要素の剥離、などが起きます。

(3)「言語」様のもの(手話なども含む)で伝達されます。

(4)実在との接触と云う契機を含まないことを除けば、基本的に(2)と全く同じです。

(5)与えられたシンボルの色々な組み合わせを試み、論理思考や想像を組み合わせて、与えられた「現実」に「意味」を見い出します。当然緑色の(3)でも同じ事が起きます(この図は、他者への伝達を前提に省略しています)。

さて、「満開の桜」の現実を前にして、「種まきの季節である」と反応する場合と、「月やあらぬ、春や昔の春ならむ・・」と、反応した場合とを比較してみましょう。後者が、より芸術的であることには万人が一致すると考えられます。この場合、何を以て「芸術的」と云うのでしょう。私の考えは、「桜が咲いた」と云う「事実」から、より(1)に近い「意味」を抽出出来ることによるのではないか、と思うのです。ここには、シンボルが本来欠落させている筈の、時間的な要素、個人的な要素、が回復し、さらには誤謬の介在を許さない「一回限りの」出来事である、と言う特定の実在感が含まれます。要するに、業平の、非常に巧みな言語=シンボルの組み合わせにより、「実在」との接触時により近い、豊かな土壌を表出できた、と考える訳です。多分、フロイト流の芸術観の基本はこのような線上にあります。

ただ、重要なことは、これが(1)の実在との接触時に於ける、直截な感嘆詞とは違うと云うことです。実在との直接接触自体は、おそらく、芸術的な何物も生みません。実在は「豊かな土壌」であるかも知れないですが、しかし、単なる「土壌」であって、花が咲き実が実っている《芸術の花園》である訳では、決してないのです。この短歌に「花が咲き、実が実っている〜つまり、豊かな《意味》の抽出を許す」のは、ひとえに紀貫之の言語=シンボル組み合わせの技量によるところです。それどころか、紀貫之自身が、実際に「満開の桜」に立ち会ったかどうかさえ問題ではないのです。島崎藤村の「椰子の実」は、完全に(3)から出発して出来上がった詩です。柳田国男が、南洋からの漂流物に関して、藤村に話し、藤村は、一度も伊良子岬に行くことなく、「椰子の実」の詩を書きました。

しかし、私たちは、この詩から、恰かも、自分自身が、伊良子岬の浜に立ち、遙か南洋から流れ着いた「椰子の実」に出くわした(1)の状況に非常に近いものを受け取り、これを、「現実」として解釈し、自分自身の中に、様々な「意味」を反響させます。実は、「芸術」が新しい「現実」を起動し、一時的にせよ、現在の「現実」と入れ替わるのは、このように、図式(1)で示される「実在との接触」に似た、何ものかを私たちに与えることによる、と私は考えています。

私の考えでは、芸術表現は、芸術家の特別の技量を以て「特殊に組み合わされた」シンボルのセットです。人はこれに接触したときに、(その組み合わせの特殊性の為に)通常のシンボル=言語的現実に組み込むことが出来ず、新たな現実を形成しようとします。この意味で、この芸術表現は、恰かも、上記図式(1)「実在との接触」に似た位相にあり、いわば、疑似=実在と同じように働くのです。

これを図示すると:

 

おそらく、芸術家は「実在との接触」と、その直後に来る、言語=シンボル化による「日常的現実」の形成、との間隙に日常的現実形成では剥離する様々な要素を掴み取り、これを特殊なシンボル組み合わせで、芸術作品の中に定着させようとします。人は、この芸術作品を鑑賞することで、「日常的現実」からは得られない様々な意味(しかし、実在との接触時には含まれるにちがいない)を反響させるのです。この、より豊かな意味を含んだ「芸術的現実」は、日常的現実とは異なります。一方は実在との接触から、直接形成された「現実」、他方は、芸術作品によって形成された「現実」だからです。しかし、双方とも、現実の背後にあって、これを形成するもとになっていると云う意味では、同じ位相にあると考えられます。この意味で、芸術作品は、「疑似実在」のように見える場合があります。ただ、この事を可能にしているのは、人間が実在を「シンボル化」して捉えようとする、本質的な傾向のおかげです。常に、実在と直に接している下等生物では、芸術が存在する余地はありませんし、従って、そもそも、実在と芸術作品を間違うことはないからです。

余談ですが、日本の誇る「俳諧」は、一瞬の光景を捉え、限られた僅かな言語組み合わせで、この豊かな実在との接触を表現する、特殊な芸術で、上記のような美学的見地の検証にはもってこいです。1、2、鑑賞してみましょう。

「凧(いかのぼり)、昨日の空の在りどころ」

(冬の)空に、凧が揚がっているのが見える、同じ凧が昨日も同じ所に揚がっていたように思う・・と云った内容ですが、「昨日の在りどころ」は「昨日の昨日」につながり、又「昨日の昨日の昨日」につながり、だんだんぼやけながら遠い昔の子供時代にまでつながります。はじめの五文字は、日常的現実では、単なる空間的影像、としてシンボル化されるものが、この句では、時間性が付与され、濃いノスタルジーを含んだ詩的現実を喚起します。

「白梅や、誰が昔から垣の外」

同趣の句ですが、今度は影像に「(白梅の)香り」を付与し、視覚的シンボル化を阻害することによって、やはり、遠い日の郷愁に誘います。この操作によって、次の「誰が昔から」の語句が数十倍に増幅されるのです。非常に巧みな言語組み合わせです。両句とも、萩原朔太郎が「郷愁の詩人(与謝蕪村)」と呼んだのにふさわしい、出来映えです。

この2句は、上記図式で赤で示される「芸術的」現実が、如何に黄色で示される「日常的」現実と異なるか、又、一つの実在との接触が、以下にしてこのように異なる「現実」を形成しうるか、の本質をよく示してくれるように思います。

[8]日常的現実と芸術的現実

クルマの運転をしている状態を想像して下さい。私は、ある一つの「現実」に囲まれています。その中で、前方を注視し、時にはスピード・メータもちらりと見やり、他車のクラクションに耳をそばだてています。この中で、前方の人影や他車のクラクションは、私に色々な「サイン」を送ります。例えば、前方の「人影」は私に危険のサインを送り、反射的にブレーキを踏みます。後方からのクラクションで、反射的にバックミラーを見ます。これらは、あるシンボルの総合として組み立てられた「現実」のなかで、その他の情報がサインとして機能していることを示します。これら、サインは、シンボルのように、組み合わされて新しい「現実」を形成する事はありません。

ところで、例えばカーステレオからの「音楽」は、ふと私に新しい「現実」を形成することがあります。事故の起きやすい瞬間です。この場合、クラクションの「音」とカーステレオからの「音」はどう異なるのでしょう。大ざっぱに云って、クラクションの音は、私に(バックミラーを見ると言う)反射運動を引き起こしますが、カーステレオからの音楽は、対応する行動的反応を引き起こさずに、現在とは別次元の「現実」を形成しようとします。言い換えれば、クラクションはそれが存在する現実にピタリと納まっていて、その中で機能するのに対し、音楽は現在の現実に納まらず、新しい現実を要求するのです。これが、芸術に込められた「仕掛け」です。

しかし、カーステレオの音楽が殆ど耳に入らない、状況も考えられます。現在の現実に密着してしまっている場合は、そうです。F-1のドライバーが運転(レース)中に、カーステレオをかける事は考えられませんし、たとえ、かけても耳に入りません。つまり、何らかの原因で緊張が起きているときは、「現実」はスワップしないのです。人間以外の、多くの動物は、つねにこの状態で生きており、ただ一つの現実に「定住している」と考えられます。

逆に、弛緩状態では、現実は容易く入れ替わるように見受けられます。ウツラウツラとしかけた状態は、この典型です。催眠術はこの状態の時に、催眠術師から、言語=シンボルによる刺激を与えられ、これを元に、新しい「現実」を形成してしまう、と考えられます。

[9]音楽の特徴

言語を用いる「文学」や、視覚的影像を用いる「絵画、造形美術」は、それら自体が「シンボルの体系」である、と云う説に抵抗なく頷くことが出来ます。それらを構成する「特殊なシンボル組み合わせ」が、現在の「現実」とは異なった「現実」を形成させるきっかけとして働くのです。

ところで、「音楽」は、如何なるシンボルの組み合わせで、人間にどのように働きかけて。どのように、対応する「現実」を形成するのでしょう。例えば、「音楽」も他の芸術と同じ「シンボルの体系」である、と云う信念に基づいた、分析哲学者の力作があります(S.K.ランガー《シンボルの哲学(原題〜”Philosophy in a New Key”)特に8、9章》〜1942年)。しかし、私には、(ランガー自身も後年述べているように)これが充分に成功したとは思えません。ランガーの音楽美学は、どちらかというと、その土台が、ベートーヴェンやモーツァルトなどのヨーロッパ近代音楽に偏りすぎていますし、美学的見地も、その辺りを対象としてひねり出した、ハンスリックの形式論的美学に偏りすぎています。この偏りは、リーマンが「機能和声」なる概念をひねり出した経緯に良く似ています。

実は、文学や造形美術と異なって、音楽は一筋縄では行かない厄介な対象です。そもそも、音楽で用いられる「音」そのものも、言語音声のように明確に文節に区切れていないし、単旋律の「歌」の場合は、シンボルの特徴である「組み合わせ(つまり、この場合、モチーフの同時使用や和声)」操作を許す余地さえ持っていません。

この辺りを、もう一度整理し直して、人間にとって「音楽」がどのように働きかけてくるかを確認してみましょう。

音楽の特異性は、次の2点に挙げられるかと思います。

●カスタム・メイドの表現媒体
●時間性

P.ヴェルレーヌの「Art Poetique」と題された詩の、最初の一節:

De la music avant toute chose,
Et pour cela préfère l’Impair
Plus vague et plus soluble dans l’air,
Sans rien en lui qui pése ou qui pose.

これは、大変有名な部分で、(詩的に訳せませんが)直訳すれば:

「何よりも、先ず音楽を、そしてそのために、大好きな奇数脚韻のリズムを、それは、大気中に、より漠然と、溶けて漂い、重さも、場所もない」

訳が悪くて、何のコッチャよく分かりませんが、要するにこの詩人の「音楽」に対する強烈な憧れを示しています。ヴェルレーヌが「音楽」の何に対して憧れているか、と云えば、「言語」を使用する詩作では、常に「日常的現実」を形成する「言語=シンボル」を流用しなくてはなりません。これは、今まで書いてきたように、根本的に「実用的」にしつらえてあるもので、詩的現実、芸術的現実を形成するのは、不向きな物です。つまり、それらは、「重さがあり〜pése」、「空間的〜pose」である、と云うわけです。そして、これを用いて、芸術的現実を形成する(つまり、日常的現実からは異なった階層にある、新しい現実を形成させる)種としての「詩作品」を作るのは至難の技である、と云うことです。

「音楽」は、それに対し、全く自前の表現媒体を携えています。使い古され、生活臭の強い、言語=シンボルを使わなくても良いわけです。「詩」と「音楽」が、良く似た芸術的現実を形成するにも拘わらず、この点で、音楽は《根本的に有利》な立場にある、といえます。上記の詩は、先ず第一義的に、この音楽の持つ特性に憧れている、と考えることが出来ます。

このことは、絵画などの造形美術に関しても、全く同様に云えることです。画を見た場合、殆どは、先ずそれが日常的現実を形成する影像的シンボルとして、理解されます。つまり、「人物」がいる、「森」がある、「花」が咲いている、と云うわけです。抽象画であったり、よりデフォルメされている場合は、「これは一体何を描いているのだろう」と、日常的に理解しようとするのです。ここから、新しい(芸術的)現実を形成させるためには、「画」自体に相当の「仕込み」と「技」が必要です。文学も、造形美術も、先ず、その第一歩でつまずく可能性を持っているわけです。

美術絵画について長く述べるわけにはゆきませんので、ここでは、有名なM.ドニによる絵画の定義を引用しておきます。ここに全てが語られているように思います。

《絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序の元に集められた色彩によって覆われた平坦な面である》

「絵画」が、日常的現実を形成するシンボル体系に吸収される前の、「実在」との接触から流出する何ものかとしてあって欲しい、と言う強い願望が込められています。

余談ですが、カンディンスキーのような完全な抽象画や、或いは、ピカソなどに見られるような、人間的視点を完全に無視した構図(例えば、顔の半分が正面像、のこり半分が横顔、のような構図)、又、装飾性に強いウェイトを置く(アール・ヌーヴォーに見られるような)立場は、完全に意図的になされた、「絵画を日常的影像シンボルとして捉える事を拒否する」為の努力です。詩人とともに、画家も、自分の芸術に架せられた「あまりに人間的な鎖」を、何とかして引きちぎろうと言う姿勢が見えます。

しかし、音楽は何という有利な立場でしょう。音楽は、それを表現するに当たって、何を流用することもなく、それ自体で完全に完結している、専用の表現媒体を携えているのです。

●時間性

「音楽」が本質的にリズムを持つこと、つまり、純粋に「時間性」の中で成立していることは、重大なポイントです。たしかに、「詩」もその中に言葉の「韻律」と云う意味で「リズム」を持っています。先の、ヴェルレーヌの詩で「l’Impair」と云うのは、詩作技法の一種である「奇数脚韻」を意味しますが、このコンテクストでは、一般に「リズム」を表していると考えて良いと思います。しかし、「音楽」が本質的にリズムを持ち、時間性の中で成立することに比べると、「詩」に於ける韻律は、やはり、かなり弱い付加機能のように見えます。

この「時間性」は、今まで書いてきたように、人間の(シンボル化を基本とする)基本的な知性傾向では、非常に捉えることが難しく、昔から、音楽が、一方では「憧れ」られ、他方では「畏れられ」て来た大きな要因となっています。音楽美学自体の各種錯綜した説も、やはりこの辺りが原因と思われます。人間知性の権化のような「イデア」の世界を理想とするプラトンは、その理想国では、「音楽」は危険故に厳重に管理されなければならない、としています。或いは、ショーペンハウアーでは、「音楽」は「世界の根元たる《盲目的に生きようとする意志》の直接の現れで、これをなだめようとする他の芸術とは根本的に異なる、としています。これらは、「音楽」が、その本質的な部分で、人間の「知性的」傾向に真っ向から対立していることへの畏れを示していると考えられますが、おそらく、その根本的要因は音楽の持つ「時間性」にあります。ベルグソンによれば、芸術作品の中にあるリズムは、「身体的運動の共振」を通して、人に対し、その作品に芸術家が託した、膨大で複雑な「情動」の全体を流し込む有効な手段、と云うことになります。「こうして、時間と空間が芸術家の意識と我々の意識との間に置いていた柵がとれてしまうだろう」と、ベルグソンは書いています。いわば、その芸術家の生きた人生の全体からなる「膨大で複雑な情動」に、その人生を再び生き直すかの如くに、引き込む有効な手段としてリズムを捉えている、と云うことです。

余談ですが、ロックのコンサートなどで、一緒に体を揺すりながら聞いていて、別の世界に引き込まれ、あげくは失神してしまう状況は、それが「優美な」世界かどうかは別にして、リズム〜時間性が持つ絶大な力を暗示しています。私たちの人格にしめる多くの部分は、数十万年或いは数百万年にわたって、我々が蓄積してきたものの塊です。人間は社会生活を営み、他者との(シンボル化による)交流によって、自分の意識を形成してきます。この形成途上に、両親、その又両親、その又両親、のように、連鎖する巨大な人間の「共通部分」がそそぎ込まれる訳です。これを「文化」と云うのか、「共通意識」と云うのか、はたまた「原始性」と云うのか、は別にして、この不気味で巨大な塊の上に、薄紙一枚で接する「個的」自我が存在することは確かです。これは、言語を持った人間の宿命だと云えるでしょう。ロックのコンサートに限らず、地球上の色々な地域で、様々な人たちが、リズムに合わせて体を動かし、この不気味で巨大な世界と一体化する行事を行ってきました。要するに「私」と云う「個」の意識は、「音楽」によって簡単に溶解することが出来るのです。この紙一枚が、リズムの力によって破られる事は、考えてみれば恐ろしいことです。ニーチェが「悲劇の誕生」で書いたディオニュソス的な「音楽の精神」は、このような意味を表しており、又、プラトンの考えも、おそらく、この力を悟った結果の警戒心ではないかと思われます。

[10]情緒、気分、感情、と音楽

一般に、昔から、音楽は、他の芸術のように、人に「イマジネーション」をかきたてるよりも、ある一定の「気分」や「情緒」を喚起するように云われてきました。ギリシャ時代にそれぞれの旋法が、特定の「気分」に対応するように云われてきたのはこの典型です。音楽が「気分」や「情緒」に深く関係していることは確かですが、但し、この「情緒」「気分」「感情」などは、心理学的にも非常に扱いにくい対象で、たとえ、このように音楽の効能を述べたとしても、殆ど得るところがないのです。この原因は、「気分」なるものが、基本的にある一定の持続を占め、その中で生起する複雑で微少な感情の起伏全体を示すもので、その全てを過不足なく含んだ言語的表現が不可能であることに因っています。「気分」は、一筆書きの曲線に似て、曲線自体は一気に与えられ、単純な「全体」として形成されますが、これを微分して「部分に分ける」ことは不可能なのです。従って、音楽を「気分」や「情緒」或いは「感情」などと結びつけて理解しようとする試み(或いは実験)は全て失敗しています。

この線上で、暗い気分に落ち込んだ人に明るい音楽を聞かせれば、明るくさせることが出来るかのしれない・・という考え方があります。これは、単純な発想で、魅力的ですが、しかし、殆ど意味をなさない考えです。「暗い」気分を微分してみれば、おそらく、そこには、悲しみや、不安や、怒りや、或いは、喜びや、期待さえも・・が様々な振幅で含まれており、それらが時間軸に沿って微妙に変化しながら継起して行くのです。この時間的継起全体の「ひとまとまり」を「暗い」気分と称している訳です。しかし、これらを構成する要素を、正確に切り出すのは、異常に困難(事実上不可能)で、従って、これに対応する(つまり、それぞれの要素に対して打ち消し能力を持つ)一連の継起を持った音楽を見いだすことも、不可能なのです。つまり、「暗い気分」は、殆ど無限に近い多くのヴァリエーションを含み、ある人が「暗い気分」の時にある音楽によって「明るい気分」にさせられたからと云って、別の人の「暗い気分」を同じ音楽が明るくさせる可能性は、全くの偶然か宝くじに当たるような確率であると思われます。

一般に「元気の出る」音楽なるものがあったとして、その音楽が人を元気にさせる仕組みは、だから、「暗い」気分に直接働きかけて「明るい」気分に転換させた、と考えるのは誤りです。たとえ、このような音楽があるとしても(大いにありえますが)、「気分」や「情緒」とは、また別の図式でこれを理解するのが正しい、と私は考えています。

[11]図式

この辺りで、少し今までのことを図式的にまとめてみましょう。

 

 例えば、現在自動車を運転している(と認知している)「現実」があるとします。黄色で示された平面(r:3)に、私はいる訳です。この「現実」には、運転にとって必要なのものが「シンボル化」されて配置されています。「道」「地形」「エンジン音」「道路からの振動」などです。この原材料は、おそらく[r:0]から取得していますが、この際に、(長々述べてきた)独特の作用が働いて、無用の物は全てフィルタリングされます。

つまり、[r:0]に生起する様々な「新しい事象」は、[r:3]面に投影され、その意味が解釈され、瞬時に対応する「行動」に反射されます。「信号機」の光、「子供の(飛び出し)影像」、「クラクションの音」…等々です。これに対し、例えば「遠くの山の端に見える昼の月」や、「後部座席のおしゃべりの内容」等々は、通常この[r:3]スクリーンには映らず透過されるのです。だから、この図式で云うと、車の運転をすることは、黄色の[r:3]スクリーンに対して、行動(運動反応)の準備態勢を採る、と云うことで、更に云えば、この黄色の《スクリーンそのものを作る》事でもあります。図式的に云えば、これが、《ある現実を形成する》構図です。

ところで、私は、人が同時に複数のスクリーン(現実)を認めている事を仮定してきました。上図では、[r:3]に隣接する、[r:2]や[r:4]のスクリーンがこれを示します。例えば、この「運転」が自動車学校の《シミュレータ》上のものであるとしましょう。この場合、[r:3]には、実際の運転とほぼ同じ様なものが映っていますが、しかし、[r:2]には、例えば、これを取り巻いて見ている教官や、他の生徒の存在があります。そして、私がそのような状況にいることを、[r:2]+[r :3]として認知する[r:4]スクリーンがある訳です。その他、点線で示した[r:1][r:5]スクリーンも存在するはずです。しかし、ここでは、殆ど認知されないほどの「現実平面」と云う意味で、点線で表しました。

さて、本物の運転では[r:2]スクリーンの内容は異なり、従って[r:4]も異なるわけですが、現在の現実[r:3]に極度に集中すれば、[r:2][r:4]はどんどん遠くなり、[r:3]だけが残ったような状態になり得ます。この状態では、本物の運転か、シミュレータ上の運転かが、実際上区別が付かない瞬間があり得ると考えられます。

一般に、人間は極度の緊張状況にある場合、目前にあるただ一枚のスクリーンにのみ反応する状態になります。火事や地震の災害から必死になって逃げる場合はそうです。逆に、極度の弛緩状態では、多くのスクリーンが並列されて、同時に様々な「現実」を見ることもあります。死の直前がそうです。高所から墜落し、危うく一命をとりとめた人の体験談などでは、墜落中の僅かな時間に「自身の人生の様々な場面が追想された」と云う報告が多いものです。ドストエフスキーもこの死の直前体験(彼の場合は銃殺刑ですが)に同様のことが起きた、と書いています。

 

[12]現実平面(r:3)と倫理学的な問題

現在の「現実」〜つまり、上記の言い方ですれば、現在チャージ対象となっている現実平面(r:3)の最大の特徴は、私たちが、その平面上で「行動的反応」を繰り広げる、と云うことです。「自動車の運転」を例にとれば、その「現実」を形成する様々なパーツは、そこでの、私たちの様々な「行動」への「合図」として、組み込まれています。道路の形状や信号機の色、子供の飛び出し、などは、全てそれに対応する一定の行動に結びついています。これに対し、現在チャージ対象となっていない「現実」は、いわば、《ただ、思い浮かべるだけ》で、「行動」への合図としては作用しないように思われます。

さて、この現在の現実平面での「行動」を考えるに、これらの「行動」を制御しているものは。一般的に、二種類ある、と考えられます。一つは、生物学的な根拠〜捕食や危険回避など〜の基づくもの、今一つは、いわば「倫理的」な根拠に基づくものです。「倫理的な」根拠は、言い換えると「社会的」な根拠に基づくものですが、実は、この倫理的な根拠が、人間にとってかなり大きな比重を占め、これへの考慮なしでは、人間の「行動」は殆ど理解できません。しかし、私は、ここでは、この問題を意識的に回避してきました。理由の一つは、問題が大きくなりすぎてまとまりがつかなくなるのを恐れたこと、今一つは「音楽療法」を一般に「芸術療法」の特殊な形態(とりわけ強力な形態)ととらえ、かなり「美学的」見地に偏って眺めようとしてきたからです。「美学」と「倫理学」は非常に似かよっているように見えますが、実は正反対のものなのです。

しかし、この問題を完全に無視してしまっては、芸術療法そのものをも、正しく理解できないと考え、ここで最低限の補完をしておくことにします。

現世人類にかなり普遍的に見られる倫理上の行動規範として「同族殺し(殺人)」の禁止、「同族婚(近親相姦)」の禁止があります。これらが、生物学的つまり遺伝的に携えている「行動規範」でないことは明らかですが、何時、どのようにして人類が手に入れたものかは分かりません。逆に、神話に於ける「神の世界」では、この二つは日常茶飯事で、「高貴な人たち」のみに許される、特別の行為と見ることもできます。とにかく、一般の人間には、これらは「禁止」されている訳です。しかし、例えば「人殺し」は、絶対的な「禁忌」ではなく、時と場合によっては、称賛や喜びの対象になります。

余談ですが、戦国時代の「をあむ」と云う名の女性の日記に、女達が、討ち取った敵の首に、いそいそとお歯黒をつける(要するに高貴な首に見せかけ、戦功をより高く見せるため)様子が描かれています。「生首も、慣れてしまえば怖いものではあらない」と彼女は記しています。ジンギスカンが、武将同志の会話で、一番の楽しみは、泣き叫ぶ女子供を殺すことだ、と云っている記録があります。彼らの農閑期(牧閑期)の遠征は、だから、「人間狩り」の楽しみとして行っていたのである、と云う解釈です(ただし、この出典は眉唾と云う説が強いですが)。これらは、「人殺し」が、場合によっては楽しみや娯楽であることを物語っています。近親相姦も天照大神やガイアなどの神話、或いはクレオパトラのような高貴な人だけでなく、一般人の中でも結構行われている様子があります。

このことは、倫理的な行動規範(多くはタブーとして禁止の方向に働く)が、それ自体では有効ではなく、「現実」に含まれる、何らかの「キー・ワード」と合致した場合に初めてアクティヴに変じ、有効なものとして働くのではないか、との考えを提起します。もし、このキー・ワードが見つからなければ、これは単なる「概念」として存在するだけで、実際には効力を発揮しないで無効になる場合があるのではないか、と云う訳です。「人殺し」に関して云えば、人類史上、度々起きる大量虐殺は、これを示唆します。近くは、ポルポトや南京大虐殺、アウシュビッツ、遠くはジンギスカン、チムール、アッチラ、アレキサンダー等の事件は、大悪人の起こした「凶悪犯罪」ではなく、名もない一般人が(恐らく喜んで)関わった、日常の出来事ではないかと思われるのです。要するに、その時点でのチャージ対象である「日常的現実」には、「人殺し」を禁忌として活性化させる「キー・ワード」が欠落していた、と考えるわけです。

このように考えると、現在の「現実」が、何らかのきっかけで「入れ替わる」ことにより、それに付随した倫理的行動規範も、アクティヴになったり非アクティヴになったり、する可能性があるのかも知れない、と仮定することが出来ます。「人と話してはいけない」と云う、強いタブーの「妄想」に憑りつかれている人が、ある時突然「話し始める」場合には、その禁忌をアクティヴにするキー・ワードを含んでいた現在チャージ対象であった「現実」を、一旦スワップさせ、その新しい現実には、このキー・ワードが含まれていなかった、と考えるわけです。逆に、件の「何でも食べてしまう(時計まで!)」人の場合は、《何でも口に入れてはいけない》と云う、子供の頃に教えられた禁忌がアクティヴになっていない現実平面にいる(つまり、これをチャージ対象としている)と考えます。

余談ですが、一般に、幼児は何でも口に入れようとします。ある時期、これは禁忌として厳しくしつけられます。しかし、この禁忌を含んだ「現実」が形成される以前の「現実」は、どこかに残っているのではないか、と云う憶測が成り立ちます。記憶がどのように保存されるのだろうか、と云う問は非常に複雑で、おそらく(問い自体が)形而上学的な問題を含み、簡単に答はでません。つまり、「記憶」は時間の問題ですが、「保存」は基本的には空間の問題であって、この問い自体が、《時間はどのようにして空間であるか》、と云うような訳の分からない問いに陥ってしまうおそれが多分にあるからです。ただ、「現実」を、このように、そこで「行動」を可能にするための「シンボル体系」のワンセット、と捉え、このセットが「行動(運動)の習慣」と云う形で、(恐らく無数に)脳神経系に保存される、と考えるのは実りのある方向です。よく云われる「幼児期への退行現象」なども、この図式で捉えれば、ある程度納得できるものです。

 

[13]反応を図式的に理解してみる

さて、この辺りで、「音楽」を聞かせて「何事かが起きる」場合の、患者の反応、を図式的に理解してみることにしましょう。ここから、実際に音楽療法現場で、療法士が、何をするべきかの具体的手順を引き出すためのヒント、を得ることが出来れば、と思います。

●「リズム」要素に対する反応

リズムは、これに合わせた「体の運動」を引き起こします。この律動的な「体の運動(の反復)」は、おそらく、「個」の消滅の方向に作用します。

現在の現実(つまり、現在チャージ対象となっている現実平面)は、云ってみれば、「刺激」とこれに対する「適切な反応の選択」が、複雑にプログラミングされた一つの「系」と考えられます。M.ミードやR.ベネディクトなどアメリカ系の文化人類学者の表現を借りれば「a bundle of costums」と云うわけです。このプログラミングの微妙な違いが、人格(個性)を形成していると考えます。ところで、音楽に含まれる「リズム」成分は、直接的に「体の運動(の反復)」を引き起こし、この人格(個性)による「反応の選択」を通り抜けてしまうのではないか、と思われるふしがあります。この律動的「体の運動の反復」を続けることによって、「個」は無視され、溶解の方向に向かうのではないかと思うのです。

世界各地で、古来から行われている様々な「祭り」には、この要素(つまり集団ダンス)が欠かせません。近年のクラブ・ダンスやロックコンサートの熱狂も、或いは、古来行われてきた戦いの前のリクルート・ダンスも、或いは、ニーチェが「音楽の精神からのギリシャ悲劇の誕生」で指摘したディオニュソス(バッカス)祭も、おそらく、等しくこの「個」の溶解を指しています。

「個」の溶解は、先の[11]での図式で考えてみれば、[r:3]平面の比重が軽くなる為の《重要な契機》です。いわば、黄色がどんどん薄くなり、レモン色から乳白色へと後退して行く過程でもあります。なお、「個」の溶解のみを考えると、音楽のリズムによって引き起こされる「体の律動運動」場面には、多数の仲間がいて、一緒に「踊る」方が効果的に違いありません。

●「旋律」要素に対する反応

これは、大ざっぱに云って「時間性(連続性)」の回復をもたらす、と考えます。ところで、時間性の回復とは何か、又、具体的に、人に何をもたらすのか、を図式的に考えてみます。

何度も繰り返すことになりますが、人間は、独特の「シンボル」的に形成された現実に囲まれて生きていると想定してきました。シンボルそれぞれは、複雑な意味を含み、人はそれぞれを組み合わせることによって「思考」を行います。この思考の基本となるものは、《生存に不可欠な「未来の予測」》です。空を眺め、明日の天気を予想し、「狩り」に出られるかどうかを「予想」します。秋の実りを「予想」して、春に種をまきます。クルマを見かけると、進行を「予想」し、身を避けます。この基本形式の骨組みは、全て共通で「ある未来を想定し、その想定された結果から逆算して現在の行動を律する」と云うものです。実は、これが「日常的現実」の持つ時間構造の正体で、

 

…・のようなループを描きながら、螺旋的に時間を前進していると考えられます。

ところで、「クルマの姿を見てこれをを避ける」ような「サインと、これに対応する行動」が時間的に充分接近している場合には、起こり得ないことですが、この想定される「未来」が、ある限度を超えて遠くにあると、その結果を手にするまでの「時間差」が出来ます。例えば「秋の実り」を想定して、現在の「種まき、耕す」行動を起こす場合にはそうです。この時間差が、人にとっては「プレッシャー(心配)」と云う形で現れます。「もし、秋に実りが来なければどうしよう」と云う形です。おそらく、犬や猫、或いは魚や蟻には、このプレッシャーは存在しないと思われます。つまり、これは、シンボルを組み合わせて「思考」を行って、かなり遠い未来を予測する、人間独特の精神状態であると考えられます。

余談ですが、この想定される未来が「保証」されなければ、そこから振り返ってなされている「現在の行為」は「徒労」ではないか、との疑念が湧きます。「来年の大学合格を目指して受験勉強に励んでいるが、もし合格しなければ、現在の努力は徒労ではないか」と云うような考えです。ニーチェが指摘した「ニヒリズム」の発端です。ニーチェは、この未来の(実現の)保証を、キリスト教の「神」に象徴されると考え、「神の死」とともに、ニヒリズムの到来を予想しています。

又、余談ですが、ペストの大流行した14世紀頃のロンドンの底抜けに明るい様子、明治期にハレー彗星衝突の噂とともに起きた日本での乱痴気騒ぎ、など、このプレッシャーから解放された人々が本来の明るさを取り戻す様子が見て取れます。阪神大震災直後の神戸の街にも、この「明るさ」が漂っているのを私自身が感じました。この辺りを、慧眼の吉田兼好は次のように喝破しています。「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるが故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり。〜徒然草 第93段」。

このように捉えた日常的時間の構造は、しかし、私たちが深いところで実際に感じている「時間」とは、少し異なります。つまり、私たちが実際に深いところで感じている時間の本質は、「何か新しいことが起きる可能性」であり、時間の経過は、何か全く新しいものを「創造する」源泉と感じているのではないかと思われます。図式的に云えば、このような時間とは現在(t0)が、ある時刻(t1)から時刻(t:2>)に進行することではなく、現在(t0)そのものが、次々に新しいものを獲得し、どんどん増大(成長)して行く過程が、私たちが内的に接触していると考える「時間」です。これを典型的に示すのは次のような比較です。

ある時刻(t1)に、「皿の上にリンゴが2個あった」としましょう、その後ある時刻(t2)には、「皿の上にリンゴが1個あった」とします。この日常時間的解釈は、(t2)−(t1)の間に、「誰かが食べてしまった」か「ころげ落ちたか」、です。要するに(t1)時に構成されていた現実がそのまま存続し、そこへ加えられた何らかの「変更」の結果(t2)へ移動した、と想定します。これに対し、私たちは別の時間概念を持つ事が出来ます。「皿の上の1個のリンゴ」「同じく2個のリンゴ」を、絵画作品と考えてみましょう。この二つは全く別の構図を持った、別の作品です。つまり(t1)時の光景に対して(t2)時の光景は「全く新しいもの」であって、(t2)−(t1)の間に、全く新しいものが《創造》された訳です。このような《創造》としての「内的時間」は、通常、日常的現実を生きている者にとって、ともすれば無視されがちです。日常的現実は「実用的」な目的に沿って形成された、シンボルで構成され、これは(前述の如く)「時間性」を剥落させる傾向にあるからです。しかし、私たちは、丁度この日常的現実の反極に、「美的認識」と云う形の錘を持っており、この錘との釣り合いで、私たちが直面する現実が、むやみに「日常性」に傾いてしまわないように「平衡」を取っているのではないか、と考えられます。

さて、この「内的時間」を最も直截に表現するのは音楽に於ける「旋律」です。音楽の旋律が示す「時間」には、日常的時間のような、過去、現在、未来、の判然とした区別は存在せず、現在は常に過去を含み、同時に未来を含むように思われます。数個の音符からなる旋律でさえも、その一つは必ず前の音符群の「続き」として存在し、先の音符への「展開」の萌芽として存在するわけです。ここには、未来を予想して行動を計画するためのプレッシャー的契機は全く存在せず、いわば、常に《成長する現在》が存在します。私たちは、音楽からこの本来の「内的時間」のなめらかさ、豊かさ、創造性、を示唆され、これによって、ともすれば、日常的現実に覆い隠されようとする、心の深部の時間性に接触するように思われるのです。

手術前の患者が、音楽によってそのプレッシャー(心配・不安)から解放される事例は良く知られた効果ですが、この例で云えば、日常的時間性の中で生じるプレッシャーが、本来の内的時間性に接触することによって消滅する例、と考えることが出来ます。同じ方向で云えば、分裂病患者の発症が、過度のプレッシャーを引き金とすることが多いのも、この図式で理解できます。私の考えでは、分裂病は、或る特定の「現実」への過度の固着、です。そして、この「現実」は人間特有の「知性」によって形成された、独特の「シンボル」から成り立っており、この「シンボル」が内蔵している様々な可能性の一つとして「妄想」「幻覚」が生じる、と考えています。はじめに書いた「分裂病は、人間特有の言語=知性の過多症ではないか」と云う意味は、ここで、ある程度図式的に明らかになったのではないかと思います。最初の頃に書いた、図式例で云えば、私たちは様々な階層の現実を重ね合わせて持っていますが、しかし、この高層建造物も、基本的には、人間の根本的な「生」の上に(つまり原現実の上に)立っていなければならない、と云う意味です。知性=言語は、進化のある時期に、おそらく「生」の道具として作り出され、発達してきたものです。これは、「思考」の対象として、その可能性を自ら増大させ、豊かな現実(高層建物)を作り出してきました。しかし、何らかの原因で、この「生」の基盤を失うと、つまり、そのよって立つところの氏素性を忘れると、時には迷路に入り(ゼノンのパラドックス)、時には妄想幻覚を生み(分裂病)、と云う結果をもたらします。私たちの全てが、このような知性の迷路に迷い込まずに済んでいる原因の一つは、私たちが「美的認識」と云う形で、釣り合いの反錘を持っているからだ、と私は考えています。「美的認識」とは、言い換えれば、「非言語的認識」であり「非知性的認識」でもあります。つまり、私たちは、片方で、言語=知性的認識を、そして、もう一方で非言語=非知性的認識を持ち、これらを相補わせつつ、実在の茂みに分け入り進んで行くと考えるわけです。

又、私は、同時に、この非言語的認識の最右翼として「音楽」を念頭に置いています。そして、この「音楽」の持つ、最も重要な役割の一つが、時間性の回復であり、この時間性回復の主役が「旋律」であると云うわけです。

 

●構成的要素(動機の複合、形式)に対する反応

民謡など旋律とリズムだけで成り立つ音楽は多いですが、いわゆるクラシック音楽に代表される、ヨーロッパ発祥の複雑な音楽は、構成的内容を持っています。しかし、これを純粋に享受しようとすれば、「よく訓練された耳」と「音楽の文法」にたいする基本知識が必要で、一般にはなかなか取りつきにくいものです。よって、ここでは一歩下がって、「音楽」が、その構成的要素によって、ある具体的な「イメージ」を形成する、いわば「描写音楽」に近い反応を採り上げ、考察します。

例えば、構成的要素の強い作品として手軽な、ウェーベルンの「変奏曲作品27」を考えましょう。この第1変奏は、非常に整ったシンメトリック構成を持っており、最初に提示される12音の音型、が様々な対称型に変化されて進んで行きます。充分訓練された耳はこれを聞き取ることが出来、聴く者はちょうど万華鏡を回しながら、次々に現れる美しい模様に引き込まれるように、独特の美しい音楽に引き込まれます。しかし、(少なくとも私にとっては)この曲は、具体的な何のイメージも喚起しません。無理に言えば、「張りつめた静寂」のようなイメージですが、これとてもイメージとしては貧困すぎます。要するに、この曲は純粋に「音の世界」での美しさであり、「イメージ」と云うような言語的・映像的な翻訳を許さないのです。

これに対して、例えば、ドビュッシーの「水の反映〜“影像”第1集」は、私にとって、大変豊かなイメージを作り出します。私自身のイメージを言語的に翻訳すれば、次のようになります。

「水」は、おそらくパリに流れるセーヌ川です。川面は、初秋の柔らかい陽を受けて銀色に輝いています。この銀色に輝く川面に、紅葉した1枚の木の葉が浮かび、ゆったりと流れて行きます。時に、小石が投げ込まれたのか、川面に波紋が起きます(提示部の最後)。陽の傾きによって、川面はキラキラと輝き出します(Db7のアルペジオ)。木の葉は、このキラキラ光る川面を見え隠れしながら流れて行きます(左手のメロディ)。その内、陽は傾き、夕暮れに近づきます。夕日は赤く染まり、陽が沈む一瞬川面はオレンジ色に反射します(Ebの両手アルペジオ)。一瞬後、陽は沈み、辺りは青い夕闇につつまれます(嬰ヘ短調の部分)。あたりは静寂に包まれ、川面にも夕闇が拡がって行きます。

この豊穣なイメージは、私が「水の反映」から得る「美しい現実」ですが、多分、初めてこの曲を聞いた状態で、即座にこの豊穣なイメージを喚起される人は小数ではないかと思います。しかし、側で誰かがアシストし、シンボル言語的な示唆を与えて行けば、おそらく、多くの人が、この曲を聞くことで何らかのイメージを手にすることが出来る筈です。

私は、音楽の「構成的要素」に反応する手始めは、このイメージを手にする過程であると考えています。図式的に云えば、音楽によって、新しい「現実」を手に入れるわけですが、この「現実」は、いわば「美的現実」であって、「実用的」に裁断され、縫製された「日常的現実」とは異なるのです。つまり、シンボル=言語的に形成された現実ではなく、そこに存在する「川面」や「木の葉」や「陽光」も、本来、それらがシンボル=言語的に持っている「実用的な」意味を、殆ど剥落させているのです。私たちは、このイメージが形成する「現実」を、「思考」することなく〜そこの含まれるシンボル的個別対象の意味を組み合わせることなく〜一つの「全体」として享受することが出来ます。よく言われる事ですが、音楽には「悲しみ」や「苦しみ」などが表現されることがあるけれども、しかし、それらは全て「心地よい」悲しみであり、「心地よい」苦しみである、・・と云うような表現は、若干今の例に似ています。要するに、これらは、美的現実としての「悲しみ」であり「苦しみ」であり、又、「川面」であり、「木の葉」であり、日常的現実に於けるそれらとは、《全く異なった位相で出現した対象》なのです。この位相の違いは、言い換えれば《行動へのトリガーを含むか含まないか》でもあります。日常的現実の特徴は、そこに含まれる対象物(シンボル)が何らかの行動へのトリガーとしての役割を果たすという事です。と言うよりも、氏素性的に、日常的現実そのものが、行動へのトリガーとして形成されていると云った方が正しいでしょう。「言語=知性」によるシンボル化を推進してきた、最も基本的な原動力は、人間の生物(動物)としての実用的行動へ向かう力である、と私は考えるからです。これに対して、「美的現実」は、この行動へのトリガーを含まないように見えます。美的現実として現れた「悲しみ」や「苦しみ」は、そこから逃れようとする行動を引き起こしません。これが、「心地よい悲しみ」であり「心地よい苦しみ」の正体です。

音楽を通して、このような「美的現実」を形成する過程は、ある「特定の現実」に固着した精神を、解きほぐし、新しい現実にスワップする契機を作る、と考えています。「旋律」が提供する「内的時間」への復帰に身を委ねる事が、原現実への復帰、「生」の回復、をもたらすのに対し、構成的要素を通して行われる「美的現実」の形成は、いわば「現在の固着している現実」からの「解脱」或いは「達観」に似た結果をもたらします。ミルフィーユ図式で云えば、現在の現実[r:3]を、他の現実平面との相対化で眺める事が出来る、きっかけを与える、と考えて良いかと思います。

「幻覚」や「幻聴」から形成される、現実が病的であるのは、内容の異様さそのものではなく、その現実が患者に対し何らかの行動を強制してくるように働く(ちょうど交差点の真ん中に置き去りにされたかのように)からである、と云うことが出来ます。つまり、同じ「交差点」を見る場合でも、自分がその真ん中に立っている場合、と、その交差点を「監視カメラ」で見ている場合とでは、行動への圧力が全く異なるのです。患者が回復期にある場合は、この行動強制力が逓減し、「幻聴」「幻覚」から形成される「現実」が、消滅するのではなく、「相対化」されつつある、と考える事が出来ます。

ところで、下等生物とは異なって、人間にとっては、全ての現実が行動に連関するとは限りません。逆に行動を止めてしまうような現実が存在します。美的現実がこれです。「美しさに息をのむ」とか「じっと聞き惚れる」とか、美的現実を認識した人間の反応が《行動停止》である事を示すような慣用表現が多くあることから、これは推測できます。満開の桜を認識した途端、思わず《足を止める》のであり、逆にクルマが突っ込んでくるのを認識すると思わず《飛び退く》のです。音楽の「美的現実」形成力には、この「行動へ向かう」現実から「行動を止める」現実への切り替え要素が、必ず含まれています。薬品で神経を遮断する以外に、適切な音楽が、適切な方法で、適当な期間用いられれば、同様の効果をあらわし得ると、私は、考えています。

●その他の付随的反応

「歌は世につれ、世は歌につれ」と云いますが、ある特定の時期の想い出と音楽が結びついている場合は結構多いもので、特定の個人について特定の音楽が、特定の昔の想い出を、1セット丸ごと引っぱり出す、ことは考えられます。一般に、音楽は「想い出」に強く結びつき、「ノスタルジー」は、音楽が醸し出す情緒の中で最も顕著なものです。音楽が、この「記憶」に強く結びつく理由そのものは、なかなか興味深い考察対象なのですが、しかし、ここでは、寄り道をせず、音楽療法との関連で図式的にのみ考えてみましょう。

ある患者が、特定の(聞き覚えのある)音楽を聞き続けるうちに、突然現在の固着した現実から離れ、この音楽に対応した過去の現実平面に移行することは、あり得ることだと考えます。私の図式では、「過去」は、「音声」や「画像」が単体でメモリに格納されるような具合に(脳内物質の変化として)「保存」されるのではありません。ミルフィーユの薄皮一枚は、ひとまとまりの「シンボルの総体」で、そこには、それぞれの「対象の意味」とそれに対応する「行動」が精密にプログラミングされた一つの「系」として存在し、これが「保存」されるのです。記憶そのものに関する問題は、深入りを避けます。ただ、一般に云われる「過去の保存」は、「習慣」としての記憶にごく近いもので、そこには必ず、何らかの「行動」要素が含まれます。繰り返しますが、シンボルは、第一義的には、人の「行動」の為に「原現実」から切り取られた部品です。言い換えれば、シンボルは「純粋な客観的対象」でもなく、かと云って、人間が思惟の中で作り上げた「イデア」でもなく、動物としての「行動」を介在として、いわば、「私」と「原現実」のコラボレーションとして出来上がったものなのです。

余談ですが、人間に限らず、動物の子供は盛んに「遊びます」。ほ乳類など、高等になればなるほど、この幼児期の「遊び」は盛んです。これは、要するに「行動」のプログラミングを行っている時期である、と考えられます。この「遊び」を通して、ある一つの「現実」が形成される、つまりミルフィーユの「薄皮」が形成されるのです。

音楽に内在する「過去」を引き出す力によって、ある患者が「過去のミルフィーユ」の薄皮に「移行」した時に、(移行の程度にもよりますが)「現在の固着した現実」にプログラミングされている、いくつかの行動源原則も同時に「移行」します。従って、観察上「現在の現実」に含まれていた、何らかの「行動強制原理」(例えば、他人と話してはいけない、と云うようなタブー)が「消滅」したように見えることはあり得るのです。この「過去の行動原理への復帰」は、正常人で云えば、「数十年ぶりに、卒業した小学校の校庭に行って、急にブランコに乗ってみたくなった」と云うような形で現れます。これと類似の経験を患者に、意図的に発生させる訳です。

 

[14]本論のまとめ

そろそろ、まとめに入りましょう。私の図式的仮説では、分裂病患者は、何らかの原因で《奇形現実》を形成してしまっている人々のことです。単純な「刺激」と「反応」で生活する下等生物とは異なって、人間は「言語=知性」を持ち、これによって、独特のシンボル的現実を、それも何層にもわたって形成することが出来ます。従って、ここに不具合が起きると、《奇形現実》が誤って形成される可能性は常にあるのです。正常者の場合は、この《奇形現実》は誤謬として訂正されますが、何らかの原因で、この《奇形現実》に固着してしまった場合、不都合が色々と起きます。

最大の不都合は、この《奇形現実》が、その人の《行動》に様々な影響を与えることです。これは、人間にとっての《現実》が、「行動」と、その「対象」、「動機」、及び「様式」への複雑なプログラムを含んだものとして形成されている、と想定することによって、理解することができます。つまり、「誰かが私を殺そうとしている」と云う《幻覚》に駆られて「傷害事件」を引き起こす事情は、おそらく、その《奇形現実》内では、一本筋の通った(つまりプログラムに従った)「納得の行く」自衛行為なのです。

ところで、言語=知性の能力により、複雑な現実を形成できる「人類」には、ちょうどそのバランス・ウェイトとして、《美的現実》を形成できる能力がある、と私は仮定します。この美的現実がよって立つ基盤(原現実)は、言語=知性的に形成される《日常的現実》と同じなのですが、同じ物の上に、ちょうど、これとのバランスをとる形で、「美的現実」が形成される、と仮定するのです。南フランスやスペインの洞窟で、数万年前に描かれたと思われる見事な(動物の)壁画が見つかっています。これについて、洞窟の壁にこれらの動物の絵を描いた原始人が、何の為にこれを描いたのか、と云う議論があります。「日常的現実」平面でこれを考え、これは「ここに獲物がいるぞ、と云う《サイン》である」、との解釈が存在します。しかし、この議論は実際の壁画を見れば(複製でも写真でも)、一気に消滅します。一目瞭然に、これは、「感動」の定着なのです。獲物に巡り会った喜び、であるとか、他人にその存在を知らせるためのサインであるのか、・・のような実用的シンボル=言語に翻訳できない、いわば、美的現実をここに定着させようとしているのです。数万年経た現在の我々にも、この動物たちの「生き生きとした躍動感」が伝わり、これを描いた原始人の形成した「美的現実」がひしひしと伝わってきます。要するに、「満開の桜」にはたと足を止めた瞬間の感動と、同じ物が、ここに定着されています。これは獲物の「サイン」ではなく、「芸術」なのです。要するに、人類は数万年前から、既に「芸術」を携えていたわけで、言語=知性的「現実」が発達するにつれて、美的現実も、ちょうどその鏡像のように付随して成長してきているのです。

このことを支えに、私は、人間の持つ「美的現実」の形成能力が、分裂病者に、その「固着した現実」から、異なる新たな現実へのスワップの機会を与えるのではないかと、推測しています。もし、これが実効性を持つとすれば、「音楽」は、非常に強力な武器となります。何故ならば、芸術の中で、「音楽」が唯一、言語=シンボル的表現媒体の拘束を逃れ、「独自の表現媒体」を持つジャンルであり、非言語的認識を容易に実現させてくれる可能性の高いものだからです。絵画や、詩や小説も、芸術として人間に「美的現実」の形成をもたらす、と云う意味では同様の働きを持ちますが、患者が固着している現実と、同じ「毒素」を含む媒体を使用する分、やはり「効力」は弱いのです。

 

[15]音楽療法の手順についての図式化

最後に、総まとめとして、具体的な「音楽療法」の手順を図式的にまとめてみます。無論、これらは、患者によって、場合によって、様々に組み合わせられるべきものですが、現在行っている作業が、私の描いた図式上ではどの位相にあるのかを粗っぽく理解するには役に立つかと思います。なお、これとは別途に付けた「音楽資料」(エクセル・ファイル)も参照して下さい。

●固着した現実からの引き離し

困難な作業であるとは思いますが、薬品で神経を遮断し言語=知性的「現実認識」をボヤかせる以外に、「音楽」による療法があり得るかも知れません。

(a)患者が反応する音楽を延々と聞かせる

音楽に、過去の「現実」をそっくり引き出す能力のあることを利用し、ミルフィーユの薄い皮を一枚一枚下に下りるつもりで、過去の現実平面を探ります。勿論、患者がどのような過去の現実平面を持っているのかは想像できませんし、それが何であるかも判断できません。従って、たとえ反応を示したとしても、それが「現在の固着した現実」に含まれる音楽である可能性もあります。これらを慎重に観察、吟味しながら、現在の固着した現実平面から離れる、或いは、これを「相対化」して、そこに含まれる「行動強制力」をある程度無力化することが出来る音楽を探さなければありません。当然、患者個別の対応になります。音楽としては、流行歌に反応することもあれば、童謡に反応することもあるでしょう、クラシックに反応することもあるかも知れません。これらは、患者の個人的な体験ですから、一定する必要はありません。あくまで、「反応する」音楽を見つけるのです。これが、見つかれば、繰り返し聞かせることで、患者に「何らかの変化」を見いだせる可能性があります。

(b)リズムに対する体の律動

もし、患者が正常な運動機能を持っているならば、「ダンス」に近いものが効果的です。複雑な振り付けは不要で、リズムに合わせて体を動かし続けることが出来れば、この目的は達成できます。音楽も、出来るだけ原始的な、打楽器だけのものであるとか、又は、今様のクラブ・ミュージック等が適します。これは、患者(正常人でも)の「個体性」を消滅させる方向に作用するはずです。最高に上手く行けば、患者は現在の固着した現実を離れ、人間の共通意識のような部分にまで降りてくる事が出来ます。出来れば、肉体的にかなり疲労するまでこれを続けるのが良いでしょう。

しかし、問題は、おそらく分裂病の患者は、運動機能に欠陥を生じさせていて、ひとまとまりの大きな運動が出来ない状態にあることが多いという事です。この原因の一つは、服用する薬の副作用と考えられますが、今一つは、分裂病そのものにあるとも考えられます。正常にプログラミングされた「現実」では、一つの運動全体を「思い描き」、ほぼ反射的に、無意識のうちに、「一気に全体を行う」事が可能です。しかし、プログラミングに欠陥のある、いわば「奇形現実」では、ひとつの運動でさえも、常に意識的なコントロールが必要で、「一気に行う」ことが出来ないように見受けられます。これは、ピアノの練習状態に良く似ています。練習を積んだ結果では、あるフィギュレーションが「全体」として一気に「弾け」ますが、初見状態では、一つ一つの音に対しての意識的なコントロールが必要で、決して「全体」として「なめらかに」運動を起こすことが出来ません。ピアノの練習は、云ってみれば運動のプログラミングなのですが、未完成のプログラミング状態では、ギクシャクとしか運動できないのです。

従って、ここで行う「ダンス」は、出来るだけ小さな運動で行えるような工夫が必要です。例えば、メディアム・テンポの4ビート・ジャズで、かすかに指先やつま先の筋肉が動いている状態で良いのではないか、と思います。もし、これが可能で、ある一定時間以上持続できるようであれば、正常人が「ダンス」を通して行えるのと同じ様な「個」の溶解現象に導くことが出来るかも知れません。

●美的現実の形成を促し補助する

症状が、ある程度の回復期に入るか、軽度のものになれば、音楽を聞いて「美的現実」を形成する、つまり「非言語的認識」の訓練を行うことが出来るかと思います。図式的に云えば、これは、言語=知性的認識に偏向し固着した、現在の「現実」に対してバランスをとる、と云う意味に解する事が出来ます。言語=知性的現実が持つ「毒」に対する「解毒剤」のような作用を持つと解しても良いでしょう。

これには、構成的要素の比重が大きい音楽を用い、「言語」とは全く異なるやりかたで、これを理解する訓練です。「非言語的な理解」を、言語的な比喩で云うのは全く不適当ですが、敢えて云えば、音楽には独特の「文法」があり、「単語」があり、「言い回し」があります。これらを支えにして、私たちは「構成的な音楽」の全体を、ちょうど、世界を言語的・知性的に理解するのと同じように、「理解する」事が出来ます。理解した音楽の「世界」は、日常的現実と同じように、しかし、全く異なったやり方で、独特の「意味」を反響させ、全体としての「実在感」と「重み」をもって私たちに「迫ります」。音楽を「理解」した経験のある人には、この実在感はよく分かっています。

しかし、ここには大きな問題があります。音楽(とりわけ、構成的に作られた音楽)を「理解」するには、充分な知識と経験、能力が必要ですし、それには訓練も必要です。これは、私たちが言語を(特に外国語を)修得する場合に似たものがあります。従って、全ての人がこの能力を備えているとは限りませんし、逆に多くの人はこの能力を備えていない、と考える方が正しいのではないか、と考えます。例えば、ベートーヴェンのシンフォニーを、この方式で「理解」しようと思えば、それに見合った能力が必要です。無論、通常「楽しみ」に音楽を聞く人は、その人なりの楽しみ方が出来れば良いわけで、ベートーヴェンを常に《理解しなければならない》と云う必要は全くありません。人によっては、オーケストラの音色だけを楽しんでいたり、コンサート会場の雰囲気を楽しんでいたり、メロディだけを追って楽しんでいたり、様々です。しかし、ここで採り上げるのは「音楽療法」としての音楽で、「楽しみ」としての音楽ではありませんから、《各人が好みの楽しみ方をすれば良い》とは、問題が根底的に異なります。ベートーヴェンのシンフォニーを「構成的音楽」として音楽療法に用いるとは、この音楽を「非言語的」なやり方で「理解」する訓練によって、言語=知性的認識に固着した患者の、《現実形成に変化をもたらす》こと、と想定しているのです。

さて、この問題を乗り越えるために、私は、言語やイメージによる「補助」を取り入れるのが良い、と考えています。例えば、充分「影像喚起的」に構成されていると思われる描写的音楽(例えばドビュッシーの作品のいくつか)を採り上げ、これに絵や写真などの映像的素材でサポートする方法です。一般的に、影像は音楽に比べて言語=知性的成分を多く含み、「非言語的」とは言い難い部分がありますが、あくまで、これを《音楽のサポートに使用》すると云う目的意識があれば、それなりの力を発揮できると考えます。同じ線上で、音楽を聞きながらの(療法士による)言語でのサポートも、注意深く行ないさえすれば、可能です。

要点は、音楽を「聞き」、これに対して患者が、その《音楽が形成する世界》に対する「実在感」を持つことです。もう少し、詳しく述べれば、例えば「機関車」の写真を見ながら「シュッシュッ」と云う蒸気音を聞いて、「実際の機関車を目の当たりに思い浮かべる」、これは、現在の現実にきっちり組み込まれている、シンボル的なパーツの一つに過ぎません。従って、極端な場合には、この機関車のイメージは行動を強制し、(初期の映画の撮影会であったように)「驚いて身をよける」ような結果を生んだりします。しかし、例えば、ドビュッシーの「運動〜ピアノのための影像第2集」やオネガーの「パシフィック231」を聞き、「機関車」の動きをイメージするのは、《ある特別の世界》に対する実在感につながっています。この場合、音楽が、ある世界を形成し、この世界への「暗示」として「機関車」のイメージがある訳です。この「機関車」はどのような意味でも行動を強制しませんし、又、この「ある世界」は、現在の現実とは位相が異なっていて、いわば、「美的現実」として現前すると考えられ、私の考えでは、日常的現実に対するバランス・ウェイトとして働くように思われます。この微妙な(ではあるが、大きな)差異、を充分心得た上で、影像や言語を、使用するならば、音楽+影像・言語による補助、は充分機能し得ると考えます。つまり、影像や言語は、あくまでも「暗示」にとどめる、言い換えれば、言語やイメージを「非言語的認識」への触媒として使用する、と云うことでもあります。