〜『ピアノの音色は弾き手の腕前に無関係と云うのは本当か?』〜
【はじめに】
ピアノは19世紀以来最もポピュラーな楽器として知られていますが、しかし、様々な楽器の中ではかなり特殊な位置にあります。その理由の一つは、「ピアノの音色は、楽器自体(とそれが置かれた場所)にのみ関係し、弾き手とは無関係」と云う問題です。
ヴァイオリンでもフルートでも、他の殆どの楽器では、《上手な演奏家=音色が美しい》ことが鉄則ですが、ピアノに関して云えばそう簡単にこの方程式は成り立ちません。極端に云えば、一つの鍵盤を、猫が鍵盤を踏んでも、演奏の大家が心を込めて弾いても、何の変わりもありません。違った言い方をすれば、同じく一つの鍵盤を指で弾いても、金槌で叩いても、同じ強さなら同じ音色であると云うことです。
ただ、一般にはタッチと音色の関係を誤解し、「柔らかいタッチが柔らかい音色を生む」と云った漠然とした迷信のようなものが流布している事も確かで、「金槌で鍵盤を叩くと、とんでもなく固い音色が・・」と考える人もあります。長年ピアノを弾いてきた人でさえこの迷信を信じている人もある位です。ここでは、この「漠然」とした迷信内容を分析しつつ、ピアノの音色に関して、私の考える所を述べてみようと思います。
[1−1]ピアノの構造模式図
下の図は、ピアノの構造の模式図です。本来はもっと複雑な機構ですが簡略化してあります。
[図1]

●ダンパー
弦の振動を止めるためのもので、普段はフェルト部分が弦に密着しています。鍵盤を少しでも押すと、ダンパーが持ち上がり弦が自由に振動できるようになります。
※又これは、ダンパー・ペダルにも連動していて右ペダルを踏むと、鍵盤を押さなくても持ち上がりますが、現在の論旨には直接関係しないので、ペダル部分は省略します。
●ハンマー
弦を直接叩く、フェルトで覆われた木槌です。鍵盤を押すと、鍵盤に連動されたピンがハンマーを動かします。
●弦
要するにピアノ線です。音域によって異なりますが、一つの鍵盤に対し普通1本〜3本がセットになっています。
●鍵盤
要するに鍵盤です。木製や樹脂や材質はいろいろありますが、単なる好みの問題で音色には全く無関係です。
[図2]
●ダンパーが持ち上がり、弦の振動を許す態勢に入ります。
●ハンマーは少し持ち上がりますが、未だ弦に接触はしません。
[図3]
●鍵盤は底まで押されて、もうこれ以上は下に行きません。
●しかし、未だハンマーは弦に接触していません。
この状態が、重要なポイントです。つまり、鍵盤を底まで弾くとコツンとした手応えがありますが、これは《弦を叩いた手応えではなく》、鍵盤が基底部にあたる手応えなのです。
この時に、ハンマーに充分な速度が与えられていれば、鍵盤が基底部分にあたって止まった後ハンマーはピンから離れて飛び上がって行きます。もし、充分な速度が与えられていなければ(つまり、ごく弱く弾いたときには)、ハンマーはこの位置に留まったままで、要するに音は鳴りません。
[図4]

●充分な速度が与えられたハンマーは、空中を飛び上がって行き弦にぶつかり、発音します。
●この時点で、ハンマーは完全に鍵盤から離れている事に注目して下さい。
●打弦した後ハンマーは即座にはね返って[図3]の位置に戻ります。
●鍵盤が押され続けている限り(つまりダンパーが上がっている限り)弦は振動し続けます。
●鍵盤が戻されると(図1の状態)、ダンパーが弦に接触し音は止まります。
重要なポイントは、発音の直前にハンマーは鍵盤を離れ、既に演奏者のコントロール下にはない、と云うことです。例えば、太鼓のような打楽器でも発音の瞬間、つまりバチが皮にあたる瞬間は確実に演奏者が制御できるわけで、この瞬間の《手応え》を加減することで大きく音色が変わります。つまり、バチを皮に押しつけるように打つか、ポンとはじくように打つか・・等の変化が可能です。
しかし、ピアノの演奏者が出来ることは、図3の時点でハンマーにどれだけの速度を与えておけるか、に過ぎません。打弦の《手応え》と感じるのは実は錯覚で、鍵盤が基底部にあたる感触です。実際の打弦は、鍵盤が基底部にあたってから後に生じるわけです。実際、鍵盤が底まで押されてコツンとした感触があって以降は、完全に自然の法則に従ってハンマーが弦に衝突し、弦はこの衝撃で、これ又自然の法則に従って振動するだけで、演奏者は何もする事が出来ません。。
と云うことは、図1〜図2〜図3、の間にハンマーを加速する役目を果たせる事が出来るならば、それは人間の指でも、猫の足でも、はたまた金槌でも、何でも同じであると云うことです。つまり、図3の時点でハンマーが持つ速度が同じであれば、鍵盤を何物がタッチしようが完全に同じ音が出る仕組みなのです。
《従って、ピアノの場合鍵盤を「猫が踏んでもピアニストの指で弾いても音色は変わらない」と云うのは完全に正しい見解です。逆に、「金槌で叩けば固い音色が出るだろう」等というのは、根拠のない見解で呪術迷信の類です。》
[3−1]他の楽器の場合との比較
ヴァイオリン、チェロなど弦楽器は、ピアノとは対照的に演奏者の腕前が如実に音色に反映する楽器です。ピアノとの根本的な違いは、ピアノの弦が自由振動であるのに対し、弦楽器は常にコントロールされた強制振動であると云うことです。弦楽器の奏者は、弦を押さえる位置、押さえる強さ、弓を引く速度、弓の圧力、を常にコントロールし続けながら、最も好ましい(美しい)音色が持続するようにエネルギーを送り続けます。このエネルギーの供給が途絶えれば、音は止まります。コントロールに少しでも失敗すると音色は悪くなります。
もちろん、ピアノと同じく弦楽器も、その楽器が鳴らされる環境(部屋)に音色が大きく依存するのは同じですが、しかし、割合から云えば演奏者の腕前に依存する分がはるかに大きいと云えます。
これは、弦楽器に限らずフルートやトランペットなどの管楽器でも同じで、要するに基本的に打楽器に分類されるピアノと持続音系の楽器とでは自ずから異なって当然といえば当然です。但し、ピアノの場合は打楽器類の中でも特殊な位置にあって、演奏者が発音体(ピアノの場合は弦)に、直接的には当然、間接的さえにも触れない構造になっているため、演奏の腕前と音色とは他の打楽器に比べても、より遠い関係になっています。例えば、ティンパニの音色は奏者の腕前にかなり依存しますが、これはバチを通して発音体(この場合皮)に触れるからで、ピアノとは相当異なる状況です。
さて、それでは最初に戻って、「同じピアノでも、上手な人が弾くと音色が美しい」と云うのは完全に呪術迷信の世界でしょうか。確かに今まで述べてきた内容で分かる如く、この類の意見の基本は呪術迷信の範疇です。しかし、100%そうであるとも言い切れません。
[3−2−1]複数の音に対する音色
ピアノは、ヴァイオリンやフルートと異なって同時に多くの音を出すことが出来ます。この「複数の音の集合」を対象に考えたときは、若干異なった風景が見えてきます。例えば、次の楽譜に示されるようなような音の集合を2種類の演奏で聞き分けてみましょう:
【注】
8分音符マークをクリックすると音が聞こえます。音は、ウィンドウズ・メディア・オーディオ型式(*.wma)の音声ファイルになっています。もし聞こえない場合はブラウザを調整して下さい。詳細は「ダウンロードと再生の方法」をご覧下さい。
演奏1の方は、いわゆる「初心者によくある」サウンド、演奏2の方は「熟練した人による」演奏です。この2種の違いを音色の違いと捉えることも出来ます。その場合、「演奏2」が「演奏1」より美しい音色と評価される場合が多いかと思います。
実は、ピアノの場合、演奏の腕前が音色と連関すると考えられるのは、このような「複数の音の集合」を対象にした場合です。
この演奏2種類の具体的な違いは、以下の2点です:
(a)各音の鳴るタイミング(同時に揃って鳴るか、バラバラで揃わないで鳴るか)
(b)各音への適切な強度の配分
しかし、これを「音色」と捉えるべきかどうかには若干疑問が残ります。これは「音色」の問題ではなく、「演奏」の問題ではないか、と云うわけです。「音色」は「演奏」の結果なのであって、そこを分けて考えることは出来ない・・という考え方もあります、一般に「演奏」と「音色」は切っても切り離せない関係のように思われますが、しかし、実はそうでもなく、場合によってはバラバラに切り離して評価できることがあります。
「演奏」と「音色」と云うのは、元来、かなり異なった概念です。「演奏」は、様式、形式感の表現等も含み完全に抽象的な概念であるのに対し、「音色」はもっと具象性を持ち、場合によっては物理的に定量化できることもあります(パソコンが身近になった昨今は、簡単にフーリエ解析を行って音色を定量化することが出来ます)。違った言い方をすれば、「演奏」は「表現」と云う意味で必ず演奏者の主体的な「解釈」を含みますが、「音色」は単なる結果であり、客観的な対象物であると云うわけです。
多くの楽器は、人間ではなく機械で発音させることもできます。この場合でも結果として「音色」を生じます。しかし、これは「演奏」の結果の音色とは異なります。何故ならば、その音色は「解釈」を含んでいないからです。私たちが、「音色」を評価する場合〜少なくとも音楽に於ける音色を評価する場合〜実は、それを通してその背後に含まれる演奏者の《解釈》を評価している場合が殆どです。先の例(3-2-1)で云えば、《演奏1》と《演奏2》の違いは、直接的には「音色」の違いとして捉えることもできますが、実際にはその背後にある「演奏」を、つまり、演奏者の解釈と表現意図を評価しているのです。
【例1】〜ベートーヴェン:「悲愴ソナタ」冒頭
次の楽譜はベートーヴェンの「悲愴ソナタ 作品13」の冒頭です。
この冒頭の和音だけ取りだして、異なった2種の音色で弾き分けてみましょう。
2つはちょうど(3-2-1)での、演奏1、演奏2、に該当します。つまり演奏1は各音の発音タイミングが多少バラケて、又、音の強さはほぼ均一にベタッとしています。演奏2はこの逆で、よく揃った発音タイミングとクリアに響くよう計算された音の強さが配分されています。
ところで、この二つはどちらが「良い音色」でしょう。意見が分かれるかと思いますが、多少演奏2の方がスッキリと聞き易いと云う意味で、賛成派が多いかも知れません。
次に、この小節を最後まで弾いて「音楽上のコンテキストに置き直して」比べてみましょう:
こうして聞くと、どちらが良いかについての最初の判断を変更する人が若干あるかも知れません。私自身の考えでは、「演奏1」の音色を採用します。発想標語のGrave(荘重に、重々しく)や、ハ短調の特性から考えても(ベートーヴェンの頃の平均律ではこの調の主和音は濁るのです)、「ドスン」と云う重い響きが欲しいと思うからです。無論、これはその人の「解釈」次第ですが、少なくとも音色を「音楽上のコンテキスト」に置き直して考えると、「解釈=表現」と云う演奏者の主体的な要素が見えてきます。
【例2】〜ショパン:スケルツォ第1番冒頭
同じように、ショパンのスケルツォ作品20の冒頭2つ目の和音(ロ短調の属7)を弾き分けてみます。
趣向は同じで、演奏1が多少発音タイミングがバラついて、各音の強度が平均的に大きい。演奏2はその逆です。
又、同じく「音楽的な脈絡をつけて」楽譜部分8小節間を聞いてみましょう。
今回の音色良し悪しの評価は、「演奏2」がベターとの方に多くの意見が集まるのではないかと思います。この2つの和音に続いて始まるめまぐるしく不安な感じの主体部分の前奏として、カリッとした感触の音色が欲しいわけですが、演奏1では多少「バシャッ」として余り相応しくないと私は思います。この曲の印象的な冒頭和音は、ショパンが「教会の鐘」をイメージしたと云われています。このカーンと云う感触から考えても演奏1は、余り相応しくはないのです。
どちらにしろ、この2例から分かることは「演奏」は必ず「解釈」を含んでいると云うこと、演奏の結果である「音色」の評価は、実はこれを通して背後の「解釈」を評価していると云うことです。この故に、音楽的なコンテキストに置いて評価した場合の「音色」と、結果として切り離された客観的対象としての「音色」の評価は、時によって異なると云うことがあり得るのです。
音楽は、漢字では「音を楽しむ」と書きますが、単に音色を愛でるのとは異なって、その背後にある演奏者の解釈を楽しむ、或いは演奏者やその背後に控える作曲者との「魂との響きあい」を楽しむ、と云ったものですから、この結論は当然といえば当然なのですが。
しかし、演奏の良し悪しが、音色の良し悪しに直接たとえられて評価される事はよくあります。「今の演奏は如何でしたか・・、とにかく音がきれいで素晴らしかったです」と云うような具合です。これは、ある場合には、単に鑑賞者が「演奏=解釈」という抽象的概念に対する評価能力を持たないだけの事もありますが(鑑賞者が子供の場合多くはこうなります)、しかし、ある場合には、楽器の特性に依存した結果を反映するとも考えられます。
例えば、ヴァイオリンはこの二つの概念がかなり密着していて切り離しがたい楽器です。ヴァイオリンは発音技術そのものが演奏の中で大きなウエイトを占めます。従って、ヴァイオリン奏者の場合、「演奏は素晴らしいが音色が今一つ・・」とか逆に「音色は素晴らしいが、演奏自体は今一つ・・」等と云う二つを切り離した評価はあまり成り立たないようです。つまり、音色に対する評価は演奏全体に対する評価とつながっていると見て良いでしょう。「音色」そのものが直接に「演奏=解釈」を示しているのです。
これに対して、ピアノはこの二つの概念が乖離していて、「ピアノの音色は今一つだったが、演奏自体は素晴らしい」式の評価が成立する可能性があります。逆に「ピアノの音色は申し分ないが、肝心の演奏自体は今一つ・・」という評価も、場合によってはあり得ます。「楽器が泣くよ・・」と云うような揶揄した評価です。つまり、ピアノの場合は([1][2]で見てきたように)音色決定に際して演奏者が直接参加できる機会は殆どなく、その分「演奏」と「音色」が乖離し、別々に評価される余地があり得るわけです。
実は、ピアノという楽器はこのことがかなり大きな特徴です。この意味で、同じように楽器を通して音楽を学ぶ場合でも、「ピアノを通して」と、「ヴァイオリンを通して」ではかなり違った内容を持つ事があります。絵画に喩えて云えば、前者がデッサン等の基礎を学ぶのに適していますが、後者は最初から絵筆を持って絵の具を混ぜなければならない・・ような違いです。
(3-2-2)の例から分かることですが、ピアノの音色に対する演奏者のスタンスは、オーケストラの指揮者のそれに似たところがあります。つまり各楽器間のバランスやアインザッツを、指を通してハンマーに指示していると云うわけです。指揮者は、直接楽器を演奏するわけではありませんが、それでも、指揮者の力量はオーケストラの音色感を大きく左右します。つまり、指揮者は自分自身の音楽上の解釈=表現の方向に従って、その場その場での最も適切な音色を作り出そうとします。ピアノ奏者の作業もこれと非常に良く似ています。考えてみれば、ピアニストから指揮者に転向する人はかなり多いですが、これも、全くの偶然でもないのでしょう。
とにかく、ピアノの場合の「音色」は、楽譜を良く読み、その構造を充分理解し全体を見通した上で最良のものを作り出す、と云った「演奏=解釈」の比重がかなり大きいのです。これは、「一つの音であれば猫が踏んでも、名人が弾いても同じ」と云う意味で「発音技術」の比重がかなり小さいと云う事実と相関しています。発音そのものに大きな負担を要求する弦楽器や管楽器との大きな違いです。
一般に快い音色とか美しい音色、とか云ったものを想定することが出来ます。自然の、川のせせらぎ、鳥のさえずり、海の波の音・・等が快い音と認定される場合が多いですが、しかし、これらは音楽ではありません。つまり、演奏=解釈という契機が含まれていないからです。
ある種の音楽を植物に聞かせて、成長が早くなるとか果物が甘くなるとか云った事があるようにも云われます。しかし、これが本当としても、それは「音」に反応したのであって「音楽」に反応したのではないと考えるのが正しいでしょう。植物が演奏を評価して反応したとは考えられないからです。同様に、昨今もてはやされ気味の「音楽療法」なるものも、そのインチキでない部分は、音楽ではなく「音響」療法ではないかと思われるふしがあります。
これらは、「音楽」ではなく「音」にかかわる問題でしたが、逆に「音」ではなく「音楽」にかかわる問題もあり得ます。モーツアルトのピアノ曲の殆どは、初期の貧相なピアノで書かれ演奏されました。弦の張力も弱く、アクションも現在のような精緻なものではありません。しかし、貧弱な音とは別に豊かな「音楽」が盛られています。古いモノラル録音でS/N比の極端に悪いレコードでも、例えばE.フィッシャーの弾くバッハの平均律曲集は、私には玉珠のような「音楽」に聞こえます。
このように考えてくると、音楽と音(色)は一方ではかなり密接に離れ難くつながっているように見えて、他方では結構お互いに無関心で一部相反するところもあるようにも見えるのです。
ピアノは、上述の如く、色々な楽器群の中では特殊に「音色」とは縁遠い位置に存在します。これは、構造上そのような仕掛けで音を発するために仕方のないことなのですが、「猫」が踏んでも、名人が「弾いても」、音色は同じ・・と云うのはちょっと珍しいことです(実はオルガンもこの仲間ですが、ストップの組み合わせと云う作業がありますから、ピアノとは若干異なります)。しかし、私は、この音色感に縁遠い部分、ピアノが「音楽」により接近しやすい位置にいるのではないか、と考えることがあります。
ちょうど、色彩を持たない墨絵やエッチングが、より直裁に絵の本質に迫る場合があるように、音色感に縁遠いピアノから音楽に接近した場合、音楽そのものの骨格が大変見えやすい、と云った有利な点があるのです。例えば、オーケストラスコアをピアノで弾いた経験のある人には分かると思いますが、原譜で音色変化のために声部がかぶせてある場合(例えば、フルートとオーボエがユニゾンで重なっている)、これは音楽の骨格としては一つの声部である、と判断して行かねばなりません。この声部が更に第1ヴァイオリンと重なっているのなら、これも一つにまとめます。・・・このような作業を繰り返すと最後に音楽を構成する骨格だけが残ります。総譜演奏の場合はこれをピアノで弾いて行くわけです。更にバッハの「フーガの技法」のような、最初から特定の楽器音色を想定しない音楽も存在します。
これは、音楽が(少なくとも音楽の「骨格」は)「音色」の要素抜きで成立する可能性を示しています。もし、そうであるとすれば、音色感に縁遠いピアノと云う楽器が、その故に「音楽」の骨格に接近しやすい、と云う私の考えもひょっとして正しいのではないか、と思うのです。