ハノンとツェルニー

【はじめに】
ハノンとツェルニーはピアノの練習曲の代名詞になるほど広く使われてきた教材です。これをお読みになっている方の多くも、このどちらか若しくは両方をお使いになった経験をお持ちかと思います。ただ、この二つは「練習曲」と云っても、若干性格の違いがあり、従って使い方も少し異なります。この「違い」を理解して、双方をうまく使い分けることは、練習の効果を上げるのに大切なポイントであると思います。このような観点から、ハノン、ツェルニー双方の扱い方を説明し、より練習の効果を上げる方法を書いてみたいと思います。

 

§1 練習曲の効果的な使い方

[1-1]ハノンとツェルニー

ツェルニー(Cznery, Carl)は、1791年オーストリア、ウィーンに生まれています。プロの音楽家である父親の影響下、幼い頃から、いわゆる神童ぶりを発揮し、9才の時には人前でモーツァルトのハ短調の協奏曲(K491)を披露し絶賛を浴びたと云われています。彼は、フンメル、サリエリなど有名音楽家のレッスンを受けましたが、その中でもベートーヴェンには特に可愛がられたようです。ツェルニーがその当時師事していた作曲の先生からの紹介で、10才頃からベートーヴェンにピアノのレッスンを受けるようになり、ベートーヴェンの大きな信頼を得たようです。レッスンそのものは数年で終了しましたが、ベートーヴェンとの関係は長く続き、ベートーヴェンは自身のピアノ協奏曲の初演をツェルニーに依頼したりしています。ツェルニーはピアニストとしての名声が高かった人ですが、一方ピアノ教師としても高い評価を受けた人です。タールベルクやレシェティツキなど当時の有名ピアニストを育てていますが、その中でも特級品はリストでしょう。1821年リストが9才の頃ツェルニーに入門し、ツェルニーは彼の才能に驚いたようです。リスト自身はツェルニーを越えましたが、ツェルニーを深く尊敬し彼の「超絶技巧練習曲集」をツェルニーに献呈しています。ツェルニーは、又、膨大な数の作品(作品番号で800を越える)を残しており、その幾つかの協奏曲と交響曲は最近録音されCDで聞けますが、その殆どは忘れ去られています。しかし、その練習曲集は世界中で使われ、特に初級者向けの30番、中級者向けの40番、50番練習曲集は人気が高いようです。

ハノン(Hanon, Charles-Luis)は、1819年フランス生まれですから本当は「ハノン」ではなく「アノン」と読むのではないかと思います(ツェルニーは本来のボヘミア系の発音ではチェルニーが近いらしいです)。長命でしたので1900年、20世紀直前まで生きた人でした。ツェルニーほどの大物ではないのですが、彼が書いた60曲の練習曲「Le Pianiste virtuose en 60 exercices」は世界中で使われ、「ハノン」と呼び慣わされています。つまり、ハノンは指の鍛錬の為の練習曲の代名詞のようになり、その線上でジャズ・ハノンやブギウギ・ハノン等という妙なものまで出現したりしているのです。19世紀はピアノの時代と呼ばれ、ピアノが楽器の王様としての地位を築いた時代です。ただ、この楽器は発音機構の特性上、一種のサーカス的名人芸の方向に向かう傾向が強く、19世紀にはそのような意味での名人芸を看板に掲げたピアニストが続出します。ハノンの練習曲は、そのような流れに沿った練習曲集で、これが広く支持されて現在も愛用されている理由ではないかと思います。

さて、ハノンとツェルニーはピアノの練習者が使う代表的な「練習曲」ですが、練習の性格はかなり異なります。野球やサッカーなどのスポーツに例えると、ハノンはランニングやストレッチなどの基礎練習に該当するのに対し、ツェルニーはバッティングやドリブルなど個別の技術の練習にあたります。だから、それぞれの練習曲は目的によってきちんと使い分けなければなりません。このような性格の違いは、ハノンとツェルニーと云った特定の練習曲に限らず、巷に氾濫している多くの練習曲にもあてはまります。ここ数十年の間に、特に初心者向けのピアノの練習曲の類は山のように出版され、それぞれに著作者と出版者との思惑で「キャッチフレーズ」を携えています。ただ、大体はハノン型とツェルニー型に分けられますので、現在ハノンもツェルニーも実際には使っていない方も、御自分が使っておられる練習教材を適当に分類してお読み下さい。

よく見かける例で、何か問題があるとすぐにハノンに戻りたがる人があります。「あるパッセージがうまく弾けない」→「指の鍛錬が足らないからに違いない」→「ハノンを弾くゾ」と云うような論理かと思います。しかし、これは「風が吹けば桶屋が・・・」式の論理で、考え方がショートしています。「指さえ鍛えれば何でも弾ける」と云うのは間違いです。指を鍛えることは必要ですが、それは練習の一部であってハノンを繰り返して弾いていればピアノが上達するなどと云うことはありません。近年スポーツ界では、プロ・スポーツの興隆に乗った形で、スポーツ医学のような合理的な考え方が流行し、目的に沿った合理的な練習方法が取り入れられたりしています。しかし、ピアノの練習現場にはそのような考え方はまだ浸透しておらず、スポーツで云えば、一昔前のとにかく「走れ走れ」式の練習方法が残っているわけです。ランニングやストレッチを何度繰り返しても、野球やサッカーそのものが上達するわけではないのと同じ理屈で、ハノンを何度弾いてもピアノそのものが上達するわけではありません。このような練習は、全く無駄というわけではありませんが、効率が悪いことは確かです。特に時間の少ないアマチュア・ピアニストにとって時間の無駄は大敵で、このような非効率は避けたいところです。

これは、ハノンとは違ったタイプの練習曲であるツェルニーにも云えることです。ツェルニーには基本的には彼の師ベートーヴェン以前の音型しか含まれていません。ベートーヴェンは確かにピアノの名手でしたが、彼以降ショパンやリスト、ドビュッシーなどが開発していったピアノでの表現手法はベートーヴェンにはなく、従って、ツェルニーをいくら弾いても出てこない(だから身に付かない)音型は幾らでもあります。ベートーヴェン(やモーツァルト)を弾こうと思えば、ツェルニーは大変合理的な練習曲ですが、例えば、ドビュッシーを弾こうと思えば全くもの足らないわけです。次の譜例(ドビュッシー:「雪は踊っている」〜子供の領分)は初級者でも弾けるやさしい曲なのですが、ツェルニーだけでやってくると、とても難しく感じます。つまり、このような手の配置はツェルニーでは少なく、結局《慣れていない》のです。このような場合に、いくらツェルニーに戻って練習曲をしっかり弾いたところで、あまり役には立ちません。

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或いは、対位法的な奏法テクニックも殆ど含まれておらず、左右の手の受け渡しや指の置き換え、などもツェルニーには欠如しています(確かに、ツェルニーの練習曲の中には「Schule des Fugenspiels 作品400」のようなものも存在しますが、しかしこれは殆ど使われておりません)。だから、極端に云えばツェルニーは「ベートーヴェンを弾くための練習曲」である、と考えても良いわけで決して《万能練習曲》でも何でもないわけです。

 

[1-2]ハノン

指の基礎鍛錬の練習曲としての「ハノン」を取り上げ、その練習の方法を見てみましょう。ハノンは3部構成になっていて:

第1部 準備運動
第2部 より進んだ名人芸のための練習
第3部 最も偉大な技術的困難を克服するための練習

となっています。多くの曲は最初の1小節だけを見れば、後は楽譜を見なくても弾けるように作られていて、ツェルニーなどと違って「譜読み」の時間が不要です。第2部の途中からは、スケール、アルペジオ、重音奏、・・などの一般的音型練習が出てきますが、それまでは「弱い指強化」のための運動が出ていて、一般的なハノンのイメージはここから来ているようです。

さて、ハノンを練習するにあたってポイントは4つあります。

@指の強化を意識する
A移調して弾く
B惰性練習にならないような工夫
Cウォーミング・アップ

これらを、ひとつずつ説明して行きましょう:

@指の強化を意識する

先に書いたように、ハノンの第2部の途中までは弱い指の強化が課題です。これを実現するためには、必ず「指で弾く」ことを意識しなければなりません。逆に言えば、手首や肘で打鍵を補助しないように注意深く弾いてやらなければならない、と云うことです。実際の演奏はパッセージによって手首や肘を使って総合的に打鍵します。しかし、これがハノンを弾くときのマイナス要素として働くことがあります。つまり、「良く動かない」指を、知らず知らずの内に「手首や肘の動き」で助けている、と云うことです。よく分からないときは、手首に何か軽いものを乗せて弾いてやるのが良い案です。手首が動いて打鍵を助けていると、この「乗せたモノ」は振動で落ちてしまいます。これが落ちないように注意して弾くだけでも随分と効果があります。

次ぎに、「指が弱い」とは具体的に何が弱いのかを意識しましょう。4、5の指は日常でもあまりメインに使うことはないし、特に5は細くて短いので、一般的に「弱い」と表現しますが、しかし、ハノンをいくら弾いても5の指が親指のように太くて頑丈になってくれるわけではありません。ピアノの鍵盤を打鍵する上で、4、5、が弱いのは第一に「上げる」力です。試しに、ピアノの鍵盤上に右手を置き、左手で右手の第2関節付近を押さえて2、3、4、5、と指を順番に上げてみて下さい。2、3、はグイと持ち上がりますが、4、5、はそうは行きません。4、5、は上げる力が極端に弱いのです。日常的に手を握る動作はしていますので、握力つまり下向きの力は4、5、といえども結構あります。しかし、この上向きの力が弱いことがピアノを打鍵する上で障害となるのです。例えば次の楽譜で、(a)の音は次の(b)の音を打鍵した瞬間には、鍵盤から離れて充分上に持ち上げられて、次の打鍵の為のテイク・バックの態勢をとっていなければなりません。

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この持ち上げが不十分だと、「音が残ったり」、テイク・バックが充分にとれていないために次の打鍵のための動作が出来なくて「音が抜けたり」するわけです。殆どの場合、弱い指での音抜けはこれが原因で生じます。だから、指の強化を目指してハノンを弾くときは、各指が打鍵した後《充分に上がっているか》を注意しながら弾くことがとても大切になります。このためには:

・手首の位置が高すぎない
・指が丸くならない

この2点が大事なポイントです。

A移調

スケールが出てくるまでのハノンは全てハ長調です。多分、これは移調して弾かれることが前提に書かれているのであって、各自実際に練習するときには、移調して〜つまり黒鍵を交えて〜弾いてみることは重要です。ただ、全ての調に移調する必要はないので、半音上げ(変ニ長調)、同名調(ハ短調)、で充分でしょう。ハ短調は導音を持つ和声的短音階を使って下さい。As音とH音との間に出来る増2度の間隔がとても良い練習になります。

【原調】

【変ニ長調】

【ハ短調】〜和声的短音階

 

B惰性練習にならないような工夫

ハノンのような単調な練習運動をしている時の欠点は、練習自体が惰性になってしまって指は動いているものの、頭とつながっていない状態でロボットのように体が動くことです。ピアノの練習をしている人で居眠りしながらでもハノンを弾ける人は結構あります。練習の目的は、音を鳴らすことではなく、自由に音をコントロールすることですから、これでは練習の効果は半減です。筋肉と持続力はついても、肝心のコントロール力はつきません。こうならないような工夫はいろいろありますが、もっともポピュラーなのは、パターンをランダムに混ぜることです。次の楽譜は:

1小節ごとに、パターンを変えています。どのパターンをどの順序で混ぜるかは全く自由で、気の赴くままで時に応じて変えて下さい。順序とかパターンが問題なのではなく、1小節ごとに変えることが目的です。このようにすると、少なくとも「居眠りしながら」弾けると云うことはありません。もし余力があれば、左右のパターンを独立して交替しても構いません。左右の手の独立という意味では、大変良い練習になります。

 

Cウォーミング・アップ

ハノンは1曲あげて、次ぎの曲という風に積み上げ式に進んで行くものでもありません。どちらかと云うと、まとめてある時間弾き続けることで、指の関節や筋肉の柔軟性を高めることが目的です。ハノン自身も、毎日60曲を通して弾くことを奨めています。要するに、ウォーミング・アップの為の運動として使われる要素が大きいのです。一般にピアノの練習で、ウォーミング・アップは大切なことです。暖まっていない手で、ピアノを弾いても殆ど練習効果は出ないのです。それは、冬にかじかんだ手でピアノを弾くことを思えば、納得できることだと思います。暖まっていない手では、普段問題なく弾けるパッセージが全く弾けなかったりして、かえって時間がかかります。又、無理をして腱を痛める事があるかもしれません。伝説的な名人芸のピアニスト、ホロヴィッツは「私は、ウォーミング・アップ無しでは何もしたくない、それは死を意味する」と云うような事を云いました。適切なウォーミング・アップの後に本格的なピアノの練習にはいるのは、練習を効果的に行うためにも大切なことなのです。

ハノンは、だから、数曲でも構いませんから上がった曲を毎日練習の前に一定時間繰り返して弾くことがポイントです。ハノン自体を練習であるとは考えずに、練習の前の準備運動であると考えるわけです。最初に野球やサッカーなどのスポーツを引き合いに出しましたが、スポーツでも練習前に充分な準備運動をするのと同じ事なのです。

 

§2 ツェルニー30番練習曲

ツェルニーの代表的練習曲集のひとつであるである「30番練習曲 op.849」を取り上げて練習のポイントなどを説明することにします。

[2-1]この練習曲の位置

30曲からなるこの練習曲は題名が「メカニズムの練習」となっており、ピアノで奏される「基本的な音型」を修得するのが目的です。ハノンなどと大きく異なる点は、まとまった「音楽表現」の中にこれらの音型が組み込まれていることです。一曲一曲には、しっかりした和声的カデンツが存在し、簡素ながら形式も存在します。つまり、これらの音型は「機械的な指の運動」として出現するのではなく、「音楽表現を構成する要素」として出現すると云うことです。従って、各音型は音楽文法上の要求に従って、時には速く時には遅く、又、時には強く時には弱く、と云った変容を受けます。実際、このような柔軟性をもって音型を奏することは、同じ音型を機械的な速度&強度で弾くよりもはるかに難しく、ハノン的な「指の鍛錬」以上の困難さがあるのです。実は、このことを念頭に置かなければ、ツェルニーを弾く価値は半減します。確かに、エチュードの一曲一曲は、ショパンやリストやのそれと比較して、若干個性に欠け類型的ではありますが、完全に音楽的にまとまった一つの曲として成り立っています。だから、練習対象となる音型もそれぞれのシーンに従った微妙な変化を持たせて奏さなければならない訳です。これは、例えて云えば、「発音練習」と「朗読練習」との違いに良く似ています。ツェルニーの練習曲は「朗読」練習である、との意識を強く持たなければ意味がないのです。実はツェルニーは、練習曲に「Etude」と云う言葉を使った最初の一人であると云われています。リストの作品1のエチュード(Etude en quarante-huit exercices dans tous les tons majeurs et mineurs)は明らかに師ツェルニーに敬意を表しての命名だったと考えられます。「エチュード」はその後、「練習」曲としてよりも個性的な小品としての一般題名となり、多くの作曲家がこの題名の下に美しいピアノ小品を書くようになったのです。

次に、ピアノの練習過程からの位置を見てみると、この30番ツェルニーは典型的な「初級者」向けの練習曲集として知られています。ピアノの練習過程を「入門」「初級」「中級」「上級」と分けるならば、この30番を終えてやっと初級を脱し、何とかピアノ曲らしい曲を弾けるようになる第一歩と云うことです。初級者のあこがれの「幻想即興曲」も何とか弾けるようになってきます。ベートーヴェンのピアノソナタも、その幾つかは「弾けるかも知れない」と云う手応えを感じるのもこの頃です。その意味では、30番ツェルニーは大変重要な位置を占める練習曲集で、これを軽んじてすませてしまうと、テクニックの基礎が脆弱で、後々何かと伸び悩むという事態に陥る人が多いのです。

[2-2]練習の実際

30番ツェルニーの第1番を例に取り、練習の具体的なポイントを見てみましょう。

参考「1番の演奏」(RM)

[2-2-1]練習の際の基本条件

先ず基本的な練習条件として

@ウォーミングアップなしでは弾かない
A最終的に必ず指示されたテンポにまで持ってくること
B音楽的な表現(ディナーミク、アゴーギクの変化、伴奏とメロディのバランスなど)の中で弾くこと

・・の3つを確認しておきましょう。かじかんだ手でピアノを弾いたことがある人は分かると思いますが、普段問題なく弾けるパッセージが全く弾けない、指が滑る、など暖まらない手で弾いても良いことは一つもありません。特に、ツェルニーのような練習曲では全く目的が達せられないままに、無駄な時間のみ経過してしまいます。既述のハノンの「ウォーミングアップ」機能を利用して、手を暖めてから弾きましょう。ウォーミングアップの時間は10〜15分でかまいません、ウオーミング・アップをしてから弾くのとそうでないのでは、練習の効果が全く違います。次に、テンポですが、必ず指定されたテンポにまでもって来なければなりません。出来れば指定の10%増し程度にまで持ってきて下さい。音型を音楽的な表現の中で柔軟に弾くと云うことは、指定のテンポで「余裕をもって弾けなければならない」と云うことです。無論、最初から速く弾くことは逆効果ですから、はじめは遅くてもかまいません。要は「出来上がりの段階では、指定のテンポで余裕をもって弾けていなければならない」と云うことです。最後に、ハノンのように機械的に弾いてはいけません。音型を間違わずに弾けることだけが目的なのではなく、より「美しく」弾けなければなりません。この「美しく」弾くための練習と云うのがツェルニーの基本です。

[2-2-2]難しい場所を確定し対策を立てる

最初に、ある程度のテンポ(指定の70%程度)でざっと弾いて、うまく弾けない箇所ミスしやすい箇所を特定します。最初の小節から全てが難しいと思うようでは、まだこの30番ツェルニーを練習する段階には達していないと考えて下さい。順調に入門過程を通過していれば、そんなに難しい箇所は多くない筈です。

例えば次の箇所(5小節目)が難しいとしましょう。

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ここが難しいのは、大ざっぱに云えば「弱い指」で弾くからです。しかし「よし、それならハノンに戻って指を強化しよう」では、いつまで経っても先へ進みません。もう少し良く観察して、何故弾けないのかを考え、工夫して練習しなければなりません。このケースでは、多くの人は、音(e)がはっきり発音できません。タイミングがが滑ったり、音が抜けたりするのです。これをもっと子細に観察してみると、音(c)を打鍵した後、音(d)を打鍵する際に音(c)を弾いた指が上がりきっておらず音(e)を打鍵する際に、充分な高さにかまえられていないと云うことが最も良くあるケースです。音(e)は4の弱い指で打鍵しますから、打鍵の前に、充分鍵盤からの高さがとれていないと勢いがつかず、結果的に打鍵に失敗するという事態を生じます。音(c)は同じ4の指で弾きますが、音(b)を打鍵した時点で充分な打鍵の構えをとることが出来ます。それは、この場合4と5を一緒に上げる事が出来るからです。従って音(c)は同じ指ながら音(d)よりも失敗が少ないと考えられます。音(d)を打鍵するのは5の指で、従ってこの場合は、4の指だけを上げざるを得ず、失敗打鍵につながる可能性がある訳です。

原因が特定できれば、より細やかな練習対策を立てることが出来ます。次のような音型を考えます。

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8分音符は強く打鍵し、且つ32分音符を弾く間は離さず押さえ込み、次の8分音符を打鍵する瞬間に「勢い良く」且つ「高く」上へ跳ね上げるようにして「離鍵」します。音(c)に関しては特に注意して高く跳ね上げて下さい。これを繰り返して弾くと、音(d)を打鍵した瞬間に音(c)を弾き終わった薬指を高く跳ね上げる意識が身に付きます。こうして、充分な打鍵のためのテイク・バックがとれれば音(e)に対する失敗打鍵は徐々に減ってくるはずです。なお、これ以上詳しくは書きませんが、手首の位置や指の形(丸くしない)などは練習の際充分な注意を払って下さい。

参考このフレーズの練習例(RM)

[2-2-3]テンポを上げる

テンポを上げるにはコツがあります。それは「限界テンポ」を見つけることです。「限界テンポ」とはそれ以上速くするとミスが続出する一歩手前のテンポのことです。テンポを上げようとして、無理に速いテンポで〜つまり限界テンポを越えた速さで〜何度弾いても、ミスを繰り返すだけで効果がありません。逆に、楽に弾けるテンポで何度弾いても速く弾けるようにはなりません。限界テンポギリギリの速さで、何度も繰り返して練習すること、これがコツです。繰り返すうちにこの限界テンポが少しずつ上がってくるのがわかります。テンポを上げる練習の中でその時々の自身の「限界テンポ」を見い出して実行するのはとても大切な事なのです。しかし「限界テンポ」などと云う聞き慣れない概念を持ちだしても、今ひとつ具体的には理解できないかも知れません。そこで、もう一歩突っ込んで考えることにしましょう。

テンポを上げる練習でもう一つ大切なことは、指の運動に対する一般的な認識です。例えば、次の楽譜で(a)パターンより(b)パターンの方がずっと弾きにくい筈です。

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(b)が弾きにくい理由は、「弱い指」のせいではありません。何故なら、(a)(b)ともに、各指一回ずつの打鍵割り当てですから、指そのものにかかる負担は等しいと考えられるからです。そうではなく、弾きにくい理由は、(a)パターンは既に何らかの形で身体の中に「濃く」記憶されているのに対して、(b)パターンは記憶されていることが「薄い」からであると考えられます。ツェルニーのような練習曲の一つの目的はここにあります。つまり、ピアノ音楽で使用される頻度の高い「音型」を練習曲によって予め身体に記憶させておく作業です。無論、指の運動はピアノの弾奏時のみに生じるものではなく、日常生活によっても生じますから、ピアノ練習以外から獲得された「運動の記憶」もたくさんありますが、上の例に限って云えば「薄い」原因が、近代ピアノ音楽の音型の特徴から容易に推測できます。ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ曲の音型素材の基本は、3度堆積型和音を元にした跳躍とそれをつなぐ順次進行で、(b)パターンはそこから若干はずれているために、「馴染みが薄い」のです。逆に言えば、ジャズピアノなどで、4度堆積和音のアドリブ・パッセージを紡ぎ出すのに慣れてしまった人は、かえって(b)のほうが弾きやすいと云うこともあり得ます。

ところで、「馴染みの薄い」音型でも「ゆっくり」弾けば、「良く馴染んだ」音型と全く変わりはありません。

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はじめの小節では(a)(b)とも、ほぼ同じに弾けますが、(a)の方は小節を追ってもさして難しくはならないのに、(b)は難しくなります。(b)の最後の小節では、速く弾けばミスする可能性が多いです。これは「音型」を「ひとまとまり」として捉えているか「ひとつひとつの音」として捉えているかの違いだと考えられます。良く馴染んだ運動と云うのは、全体を一つの連続した流れとして捉えていますが、馴染みの薄いものはそうではありません。速いテンポで弾けるかどうかのキーポイントはここにあります。つまり、「音型」と云うのは「一つの連続した流れ」として捉えられてはじめて「音型」なのです。云い換えれば「限界テンポ」と云うのは「音型」に対して現れるもので、ひとつひとつの音をたどる状態では存在しないと云えるわけです。この「音型」概念を念頭に置いて、前半最後の折り返し部分4小節を見てみましょう。

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「音型」的に見ると、ここは図のような構造で成立しています。最初は(a)(b)(c)(d)(e)のような5つの「音型」として体に蓄積されます。この段階でテンポを上げてみると、各音型の間に僅かなギャップが生じます。とりわけ(c)と(d)の間にはギャップが生じやすいでしょう。逆に(a)、(b)、(c)・・と区切って弾いてやると、弾きやすいと感じるかも知れません。これを「限界テンポ」で反復しますと、徐々にギャップが埋まって行くのが分かります。つまり、(a)を弾いている間に(b)の音型が全体として頭に浮かび(a)が終了した途端に、間髪を入れず(b)の音型運動が開始されるようになるわけです。このようになれば、音型(a’)が形成されたと考えられます。このような「ギャップ」の消失を念頭に練習を反復することはとても大切です。これを繰り返せば最終的に(a’’)に行き着きます。
実は、この(a’’)の状態は、ほぼ「暗譜」と云って良いものです。よく、難しいパッセージは暗譜をしてと云われるのは、実はこのことを表しています。実際に曲を弾くのに完全な暗譜は必要ありません。プロのピアニストはステージ上の見映えなどもあって暗譜で弾くことが多いですが、アマチュアにとってそのような意味での暗譜は全く必要ないのです。しかし、「テンポを上げるための」練習をしていると、結果的には「部分暗譜」に逢着します。これは、大変有用な暗譜でテンポを上げるための実用上のコツとも考えられます。

《ツェルニーの作品500》
ツエルニーには、「はじめに」で少し触れたように楽譜だけの作品ではなく、かなり詳細な解説を備えた作品があります。その代表的なものが、作品500として知られる「Vollständische theoretische-practische Pianoforte-Schule」(Complete theoreticai-practical pianoforte school)で、一般に「Piano-Schule」と呼んでいます。1839年に3部のものがA.ディアベリから出版され、1846年に第4部が付け加えられ(当時としては)コンテンポラリーなショパン、リストなどの作品の演奏アドヴァイスが加えられました。ツェルニーのこの作品には、ピアノ演奏に関するあらゆる事が、豊富なツェルニーによる譜例とともに解説されていて、大変面白いものです。特に、アマチュアのピアノ愛好家はプロのピアニストとは異なって、厳しいトレーニングに寸暇を惜しんでいそしむと云う位相にはありませんから、このような角度からツェルニーに取り組んでみるのも大変楽しいことです。残念ながら日本語訳があるかどうかを私は知りませんが(多分ない)、独語の原文はWeb上に公開されています(Kölnklavier トップページから「Quellen des 18-19 Jhs」に入れば分かります。)ので、是非一度目を通してみることをお奨めします。