J.S.バッハ作曲 フランス組曲第5番ト長調より「サラバンド」
《ライブラリ6に、楽譜、オーディオ・データ掲載》

【全般】
この曲を練習するに当たって、次の3つの問題をポイントとして採り上げます。

@リズムとテンポの問題
A装飾音符の問題
B置き換え、乗り越え、など特別な運指
Cバッハの作品をピアノで弾くときの問題

はじめの2つは、バロック音楽を演奏する場合に特有の問題を含んでいます。3番目は、バロック特有というわけではありませんが、ピアノ的というより、オルガン的、ハープシコード的と云った、やや古いスタイルの鍵盤楽器運指法で、これは別個に採り上げる事にします。最後の問題は、要するに、タッチの問題で、この曲に限らず、非ピアノ作品をピアノで弾くときの大きな課題です。様々な意見があるかと思いますが、ここでは私の意見を述べてみます。

リズムとテンポの問題の一つは、例えば、この『サラバンド』のような遅いテンポで弾かれる舞曲での付点音符の奏法です。
装飾音符を除いてリズムの骨格だけを示しますと、次の例のように『楽譜通りの譜割で』弾かれることは少なく、通常、リズムは若干『鋭化』して演奏されます。


無論、これは演奏者の解釈次第で、このように弾かなければならない、と云うような「規則」ではありませんが、一般的に云って、バロックまでの古い音楽では、楽譜に示された譜割を機械的に再現しても、満足な音楽にはならない事が多く、演奏者の「解釈」の要素がかなり大きな比重を占める事は、知っていなければなりません。
 

もう一つのリズムの問題は、バロック音楽ではよく用いられる『テンポ・ルバート』の表現です。バロックでは、単にテンポが揺れるだけではなく、旋律が伴奏に対し相対的にかなり自由に弾かれるために、結果、右手と左手がズレて演奏される、と云う事が良くあります。特に、このような、遅い歌謡的な曲ではよく見られる演奏法です。この奏法は、バロック期が終わるとともに放擲され、忘れ去られていましたが、(後述するように)ショパンによって再び持ち出され、いわゆる《ショパンのテンポルバート》として、再興されることになりました。従って、バロックだけでなく、鍵盤奏法の一般的なテクニックとして、知っておかなければならない大事な問題です。

装飾音符については、具体的なパッセージに従って説明しますが、問題は、この頃の音楽の流儀として、旋律の装飾を含め、フレージングなど、演奏者の裁量に任せられる割合が多く、楽譜に全てが記譜されていると云うことがない点にあります。従って、『楽譜をそのまま弾く』だけでは満足な演奏が成立しないわけです。

フレージングについては、解釈の一例として、細かく指示した(運指についても、私の解釈ですが、細かく付けています)楽譜も用意しています。必要に応じてプリントアウトしてご利用下さい(下のアイコンをクリックして下さい)。

又、その辺りの問題を含めて、バイエルが終わり、バッハなどを弾き始めた時点で、バロックの鍵盤楽器演奏法についての文献を何か読んで置く、と云うのも練習の重要なファクターです。ここでは、そのような文献で、手に入りやすく、且つ、信頼のある、Carl Philipp Emanuel Bach(ヨハン・セバスチャンの次男)の書いた『Versuch über die wahre Art zu spielen』〜日本語訳「正しいクラヴィア奏法」又は「正しいピアノ奏法」をお奨めしておきます。


以下、楽譜内に矢印マークのある楽譜は、オーディオ・ファイルとして演奏を再生することが出来ます。但し、若干サイズが大きい場合があるので、接続速度の遅い方はストレスがたまるかも知れません。その場合は、一旦全てをダウンロード&保存して、オフラインで再生することはお奨めします。

【詳細】
(1)テンポとリズム、及び装飾音符の問題
●冒頭4小節
最上段が右手の「記譜」、下2段が実際の「演奏例」です。「記譜」は「アンナ・マグダレーナ曲集」に記載された、バッハ自身の手書きから採り、略記的な前打音のみを、現代風に書き改めてあります。

 

@最初のは、《モルデント》と呼び、演奏例の如く2度下の音を軽く引っかけてもとに戻ります。
A付点音符のリズムが鋭化されていることに注意して下さい。
Bの記号は《転回モルデント》と呼び、2度上の音から入って短いトリルのように動きます。
C小音符で示されるアポジャトゥーラには、2種類あって:
 (a)スラッシュの付くもの
 (b)スラッシュの付かないもの
が、区別されます。この例はスラッシュの付かないもので《長前打音》と呼び、ほぼ、その音符の音価分(この場合は8分音符)次の音符に食い込みます。
D3小節目の転回モルデントに関して、開始音が、偶然この例のように直前の音と同じ場合、タイにしてしまう事が良くあります。これは、オルガンのような短い間隔での同音連打が難しい楽器で弾く場合の習慣で、現代のピアノで演奏する場合、弾き直しても構いません。


●6〜8小節目

リズムの《鋭化》に注意して下さい。最初の小節の16分音符一対は、32分音符の一対のように弾かれています。但し、このリズムの変化は機械的な変換ではなく、緩やかに流れる、サラバンドのリズムの中で行われるものです。従って、あまり極端なものも疑問です。演奏例を良く聴いて、《緩やかなリズムのノリ》を理解するのが重要かと思います。


●13〜16小節

@は《トリル》の記号で、2度上の音から入って、本音と交互に素早く弾きます。通常は、長い音価の本音に付けられて、何度も繰り返される繰り返される訳ですが、このように短い音価(16分音)に付けられると、交互に弾かれるのは1回だけですから、結果的には《転回モルデント》と同じになります。特に、バッハはこの《トリル》と《転回モルデント》を厳密には区別していなかったようで、事実上転回モルデントの場所にもトリル記号が付してある例が良くあります。
Aは《複モルデント》と云って、要するに転回モルデントがダブッているだけのものです。

 

●21〜24小節

最初の右手ドの音の、タイミングに注意して聴いて下さい。僅かに左手のラよりも遅れて入っています。このように、右手左手(旋律と伴奏)とは、楽譜通り縦に一致しているわけでは決してなく、場合によって右手が遅れたり、先に入ったりすることがよくあります。これは、特にピアノのような、単純な打撃音を発するだけの楽器では、重要な演奏技巧の一つです。要するに、ピアノには弦楽器や管楽器のような、『立ち上がりの際の音色変化』が殆どないからで、これを補う役目を担っています。

 

●31〜32小節

楽譜通り数を合わせると、8分音符単位の左手伴奏に対して、右手旋律は、2・2・2・2・3・3とならびます。しかし、決してこのように機械的に縦に一致させて演奏するわけではありません。3連二つはかなり速めに、寸詰まりに奏され、次の小節のG音は、その分、先に弾かれてしまいます。そして、早めに弾かれたG音は、そのズレを取り戻すべく、ある時間を待って調整して後に、32小節2拍目のF#音に入る訳です。
このように、旋律が「歌われる」場合、伴奏に対して、右手パッセージが縮んだり、伸びたりしながら、全体としてはつじつまが合っている、と云うようなルバート奏法の一種は、バロック時代には好んで用いられました。後に、ショパンがこの奏法を復活させ、彼独特のテンポ・ルバート奏法をあみ出したわけですが、源流は、このバロック時代の奏法にあります。

大事なことは、左手は(つまり伴奏は)きちんとしたリズムを保持していなければならないことで、これがこの奏法の難しいところです。参考演奏を何度も聴いて、感じを掴んで下さい。なお、この部分のスラーは、珍しく、バッハ自身が書き込んでいるもので、要するにこの「ルバート奏法」を(マグダレーナに)意識させようとしたのではないか、と考えられます。

このような、ルバートを含んだ旋律装飾奏法の例を一つ掲げます(バッハ:チェンバロ協奏曲第5番よりの編曲→ライブラリ6に掲載)、楽譜を見ながら演奏を聞き、左手伴奏と右手旋律の「ズレ」具合を確認して下さい。

 


●33〜36小節

の印は、複前打音付きの複モルデントで、以下の楽譜のように弾きます。ヒゲの方向によって前打音の向きが変わります。


 


(2)特別な運指
次の、楽譜を見て下さい。

この部分の左手には、2種類の問題となる運指が含まれます。
●指の置き換え
2小節目のF#音は、まず2の指で打鍵し、その後、再度打鍵しないで素早く1の指に置き換えます。これは、オルガンでは(下の譜面参照:ライブラリ9に掲載)頻繁に使用される運指テクニックですが、ピアノでもペダルを使って伸ばすことが出来ないときは、これを使います。


●指の乗り越え
2、3、4、5指の下を1指がくぐる、いわゆる「指くぐり」と異なって、3又は4の指が、4又は5指の上を「乗り越える」かたちの指使いは、レガート奏法には欠かせません。やや、変則的に思われますが、実際にやってみると意外に易しく、慣れると、次のような音型では「指くぐり」法よりも「指乗り越え」法の方が弾きやすい位です。


ちなみに、ショパンのエチュード作品10の2は、この乗り越え運指で半音階をレガートに弾く練習です。

 
この練習曲は、速いテンポで弾くと大変難しいですが、「乗り越え運指」に馴染むだけならば、速く弾く必要はありません。この2小節を、繰り返し(ゆっくり)弾きながら、この「乗り越え運指」に指を馴染ませるのも良い練習かと思います。

 

(3)バッハの作品のピアノでの演奏
最後に、この曲をピアノで演奏するに当たっての問題について、私の意見を書きます。要するに「タッチ」の問題です。

バッハの時代には、現在の完成されたピアノはまだ存在しませんでした。ピアノの初期のモデルはあったようですが、バッハはこれを試弾して「高音がきたない」とかなんとか云って、楽器としては殆ど興味を示さなかったようです。従って、バッハの使った鍵盤楽器は、チェンバロ、クラビコード、(それにオルガン)と云うことになります。
この内、チェンバロとオルガンは殆ど強弱のタッチが効きません。ただ、オルガンは持続音ですので、強弱のタッチは皆無ですが、長さのタッチには正確に反応します。チェンバロはピアノと同じ減衰音で、その上強弱のタッチが効きませんから、実はひどく弾きにくい楽器です。実際にチェンバロをお弾きになってみるか、あるいは、電子ピアノなどで強弱のタッチを効かないようにして弾いてみればすぐ分かるのですが、ピアノを弾き慣れたものにとっては、これは致命的に苦しく、特に遅い歌謡的な曲では、全く途方にくれます。要するに歌えないのです。実は、この事が、装飾音符をたくさん付加して、旋律部分を飾り立てて弾いたり、メロディを伴奏からずらせて弾いたりするバロック的テンポ・ルバート奏法の原因になっていると考えられます。
これに対し、クラビコードは、その構造上少し「タッチ」が効きます。発音した後も、鍵盤は弦につながっているいるために、いわば、アフター・タッチのような操作で、発音した音を少し変化させることも可能だったようです。バッハはこのクラビコードを大変好んでいて、オルガン作品以外の多くの鍵盤曲は、このクラビコードで演奏されたと思われます。中には、完全にチェンバロを対象に書かれたと思われる曲(例えば、イタリア協奏曲とか、有名なブランデンブルグ協奏曲第5番など)もありますが、例えば、このフランス組曲やインヴェンションなどは完全にクラビコード作品と見なして差し支えないでしょう。

このことを理解した上で、バッハの作品をピアノで弾く場合、「タッチ」をどのように扱えば良いかを考えてみましょう。

先ず、純然たるチェンバロ作品をピアノで弾く場合、強弱のタッチの細かいニュアンスは禁物かと思われます。この種の作品は本当はチェンバロで弾くべきで、たとえピアノで弾いたとしても「チェンバロ」のように聞かせる工夫が必要です。例えばイタリア協奏曲は(それと一対になっているフランス風序曲も)、2段鍵盤のチェンバロで、カプラー効果を用いながら、オーケストラ部分とソロ部分とを弾き分け(たように聞かせる)、と云った工夫が必要なのです。

これに対し、作品の多くを占めるクラビコード曲では、ことさらにチェンバロの平坦な強弱タッチを意識する必要はないのではないか、と思われます。しかし、ロマン派ピアノのような、大きな幅のディナーミクは当然避けるべきで、むしろ、オルガンにも、チェンバロにも、ピアノにも共通の《長さのタッチ》を前面に出して、補助的に強弱タッチを使って表現するのが良いと思われます。

この長さのタッチについて、分かりにくい方もおられると思いますので、少し具体的に説明しておきます。

例えば、バッハ作曲インヴェンション4番ニ短調(ライブラリ2掲載)の冒頭を私は次のように弾いています:

2小節遅れて左手が主旋律として入ってきますが、これに対し伴奏である右手は、「弱く」弾いて左手を目立たせる訳ではなく、少しスタッカート気味に弾いています。これで、音量が同じでも、右手左手に主従の関係を作ることが出来るのです。このことは、ある部分「強さのタッチ」が「長さのタッチ」に入れ替われる事を示しています。

同じくインヴェンション8番ヘ長調(ライブラリ2掲載)では、こんな風に長さのタッチを組み合わせて弾いています:

・Aの音型は「鋭い」スタッカートです(左手に来ても同じ!)
・Bは、相手のスタッカートとの対比を際だたせてレガート
・Cは、軽く弾くために「短めのレガート」或いは「長めのスタッカート」
・DはCと同じ形ですが、頭の音符に若干のアクセントを持たせるために、こんな感じにします。

アクセントは、ピアノの場合「強く」打鍵することで付けることが出来ますが、ここでは、それをせずに「長さのタッチ」での表現を試みています。このようにする事で、バロックの「運動的な」パッセージが、例えば、ショパンやリストのような華やかでダイナミックな鳴り方ではなく、軽やかに鳴ってくれます。ちなみに、モーツァルトも基本的には同様の手法で表現しますと、ベートーヴェンとは異なった格別の味が出てくると思います。

さて、速いパッセージに限ることなく、「長さのタッチ」を上手に組み合わせると、「強さのタッチ」に頼らずに充分な歌謡的表現が可能な例として、同じフランス組曲第2番ハ短調から「サラバンド」を掲げます。右手の旋律は、長さの組み合わせを様々に工夫して、変化をつけ、やや単調になりがちなこの曲をまとめています。そこに注目して聞いて下さい。右手が2段に分かれているのは、長さのタッチを変えて、色々なフレージングが出来る例として掲げています。無論、これ以外にも、様々な解釈が可能です。なお、この曲は第5番の「サラバンド」と殆ど同じ程度で弾くことが出来ます。問題、課題のあり方も同じだと考えられますので、第5番の「サラバンド」の練習を終えた方は、復習のつもりで挑戦されるのも良いでしょう。



一般的に、バッハを弾く場合この「長さのタッチ」には非常にデリケートでなければなりません(単にスタッカートとレガートの2種類があるのではなく、長さの違いによってスタッカートにも幾種類もがある、と云うことに注意して下さい)。強弱のタッチが可能なピアノで弾く場合には、ともすれば忘れがちになりますが、この長さのタッチの微妙な変化を付けることで、強弱のタッチがなくとも、声部間の弾き分け、或いはフレージングが可能になります。そして、強弱のタッチはあくまでも「補助的」に用いるのです。

 

【最後に】
これで、バッハ作曲:『フランス組曲 第5番』より《サラバンド》練習の際のポイントの説明は終わりです。
最後に、楽譜の全体を見ながら、各部分がどのように弾かれているかを聞いて確認して下さい。下のアイコンをクリックすると、楽譜全体が別窓で開きます。各部分(黄色く囲った部分)は別個に再生することが出来ます。

この曲は、テンポが遅いこともあって、技術的には易しく、バイエルがしっかり終了していれば、難なく弾く事が出来ると思います。しかし、ただ機械的に楽譜を鍵盤に移しただけでは、曲の半分も弾けていない訳で、バロック特有の様式感を身につけて演奏しようとすると、かなりの経験と知識が必要です。この経験と知識とを蓄積して行くことが、実は「練習」の半分を占める作業で、その積み重ねによって「より美しい演奏」を追求することが可能になってくる、と私は考えています。